ソロモンの神殿

概要
ティルスの職人と杉材で建てた、と聖書は記す。BC586年に壊され、第二神殿がAD70年に壊され、いまその場所には岩のドームが建つ。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(2)
ソロモン?–BC930年頃 · 王ヒラム杉と職人本文
旧約聖書によれば、イスラエルの王ダビデは、エルサレムを都に定め(ダビデのエルサレム)、神の住まいとなる神殿を建てたいと願った。だが預言者を通じて、それは子の代に果たされると告げられた。のちの『歴代誌』は、その理由を、ダビデが戦いで多くの血を流したからだと説明している。神殿を建てたのは、子のソロモンだった。
『列王記』は、工事の様子を細かく書いている。ソロモンは即位して4年目に工事を始め、7年かけて完成させた。建物は奥行き60キュビト、幅20キュビト、高さ30キュビト(1キュビトはおよそ45センチ)で、入口の広間、本殿、いちばん奥の至聖所の3つの部分に分かれていた。至聖所は一辺20キュビトの立方体で、窓のない暗い部屋だった。そこに、金で覆ったオリーブ材の2体のケルビム(翼を持つ守護の像)が置かれ、その翼の下に契約の箱が納められた。モーセの時代から運ばれてきたとされる、十戒の石板を収めた箱である(出エジプト(伝承))。

建材と職人は、北の隣国フェニキアから来た。ティルスの王ヒラムが、レバノンの山の杉と糸杉を切り出し、筏に組んで海から運ばせた。ソロモンはその見返りに、毎年小麦とオリーブ油を送った。ソロモンの側からも、交替で大勢の労働者がレバノンへ送られたという。神殿の前に立つ2本の青銅の柱や、巨大な青銅の水盤を鋳造したのも、ティルスから来た職人だった。フェニキアの都市は当時、地中海の交易と工芸の中心で(ヒラムのティルス)、内陸の新しい王国は、その技術を借りて国の顔を作ったことになる。
神殿は、王宮と並んで丘の上に建てられた。王の権威と神の住まいが隣り合い、エルサレムは政治と信仰の両方の中心になった。ソロモンの死後、王国は北のイスラエルと南のユダに分かれるが、神殿はユダの都に残り、やがてユダヤの人々にとって、神に犠牲を捧げることが許されたただ一つの場所になっていく。
紀元前586年(587年とする説もある)、新バビロニアの王ネブカドネザル2世の軍がエルサレムを落とし、神殿を焼いた。人々の多くはバビロンへ連れて行かれた(バビロン捕囚)。契約の箱は、このときを境に記録から消え、その行方は分からない。

半世紀ほど後、バビロンを征服したペルシアの王キュロス2世が、捕囚の民の帰還を許した。帰った人々は神殿を建て直し、紀元前516年ごろに完成させた。第二神殿である。最初の神殿の破壊からおよそ70年後にあたる。紀元前20年ごろ、ヘロデ大王はこの神殿を大きく作り直し、神殿の建つ台地を広げて巨大な擁壁で囲んだ(ヘロデの神殿)。その神殿も紀元70年、ユダヤの反乱を鎮めたローマ軍に焼かれた(エルサレム神殿の破壊)。いま「嘆きの壁」と呼ばれて祈りの場になっているのは、ヘロデが築いた台地の西側の擁壁の一部である。
7世紀、エルサレムはイスラームの支配下に入った。691年ごろ、ウマイヤ朝のカリフ、アブドゥルマリクが、かつての神殿の台地の中央にある岩を囲んで、黄金の円屋根の建物を建てた(岩のドーム)。イスラームの伝承では、預言者ムハンマドが夜の旅でここから天に昇ったとされる。ユダヤ教の伝承では、この岩はアブラハムが息子を捧げようとした場所とも、至聖所のあった場所とも言われる。一つの丘に、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの記憶が重なっている。

ソロモンの神殿そのものは、考古学では確かめられていない。台地はいまイスラームの聖域として管理されており、発掘はできない。聖書の記述に似た3つの部屋を持つ神殿は、シリアのアイン・ダーラなどで見つかっており、『列王記』の描写が当時の神殿の形と合うことは分かっている。一方で、ダビデとソロモンの王国が聖書の描くほど大きく豊かだったのかについては、考古学者の間で大きく意見が分かれている。小さな部族の王国にすぎなかったと見る研究者もいれば、聖書の記述に近い国家があったと見る研究者もいる。
それでも、この神殿の記憶は3000年近く人々を動かし続けてきた。ユダヤの人々は神殿を失ってから、祈りと律法の学びを中心にした信仰を作り上げた。神殿の丘は、いまも世界で最も争いの火種になりやすい場所の一つである。