人物

クローヴィス1世

Clovis I
AD466年頃 – AD511年(享年45・推定)
フランク王国重要度 3

概要

フランクをまとめ、カトリックを選んだ。西ヨーロッパの王権と教会が結びつく起点になる。

所属

フランク王国

関わったできごと(1)

クローヴィスの改宗AD496年頃(508年説もある) · 当人

本文

466年頃に生まれた。父のキルデリクは、ライン川の河口に近い地方からガリア北部へ入ったサリ系フランク人の王で、トゥルネー(いまのベルギー)を本拠にしていた。西ローマ帝国はクローヴィスが10歳のころに滅び、ガリアには、ローマの将軍の残党、西ゴート人、ブルグント人、アラマン人、そしていくつものフランク人の小王国がひしめいていた。1653年、トゥルネーで父キルデリクの墓が見つかり、王の印章の指輪や、金の蜂の飾りが出てきている。

フランソワ=ルイ・ドジュイヌ画『フランク王クロヴィス』
フランソワ=ルイ・ドジュイヌ画『フランク王クロヴィス』Wikimedia Commons François-Louis Dejuinne · Public domain

15歳で小さな部族の王になった。481年頃のことである。30年で、ガリアの大半をまとめた。その顛末を、半世紀あまり後の司教トゥールのグレゴリウスが『歴史十書』に書いている。クローヴィスの生涯は、ほとんどこの一冊に頼って語られるが、グレゴリウスは教会の側から、カトリックを選んだ王を神に選ばれた者として描いた。そのことを念頭に置いて読む必要がある。

486年、最初の大きな戦いで、ソワソンを拠点にガリア北部を治めていたローマの将軍シアグリウスを破った。戦利品をめぐる話が残る。教会から奪われた見事な壺を、司教の頼みで返そうとしたクローヴィスに、一人の兵士が、王でも分け前はくじで決まるはずだと言って斧で壺を叩き割った。一年後、兵を閲兵したとき、王はその兵士の武具の手入れが悪いと咎めて斧を地に投げ捨て、拾おうとかがんだ兵士の頭を叩き割った。ソワソンの壺にお前がしたように、と言ったという。

聖レミによるクローヴィスの洗礼(部分)
聖レミによるクローヴィスの洗礼(部分)Wikimedia Commons Pethrus ( talk ) · Public domain

493年頃、ブルグント王家の娘クロティルドを妻に迎えた。彼女はカトリックの信徒で、夫に改宗を勧め続けた。グレゴリウスによれば、アラマン人との戦いで負けそうになったとき、クローヴィスは妻の神に、勝たせてくれれば信じると誓い、勝ったという。こうして、ランスの司教レミギウスのもとで、3000人の戦士とともに洗礼を受けた(クローヴィスの改宗)。誇り高い王よ、頭を垂れよ、焼いてきたものを拝み、拝んできたものを焼け、と司教は言ったと伝えられる。洗礼の年は496年とされることが多いが、498年や508年とする説もある。

カトリックを選んだことが、後々効いた。他のゲルマン諸王はアリウス派で、征服した土地のローマ系住民から異端と見られた。キリストを神より一段下に置く教えで、ローマの人々の信じるカトリックとは相容れなかった。彼はそう見られなかった。司教たちが行政に協力した。文字を読み書きし、実務を担えるのは当時ほぼ聖職者しかいない。司教はローマの元老院の家柄の出が多く、町の顔役でもあった。

アリ・シェフェール画『トルビアックの戦いのクロヴィス』(1836年)
アリ・シェフェール画『トルビアックの戦いのクロヴィス』(1836年)Wikimedia Commons Ary Scheffer · Public domain

507年、南のアキテーヌを押さえる西ゴート王アラリック2世を、ポワティエに近いヴイエで破った(西ゴート王国)。アラリックは戦死し、西ゴートはピレネーの南へ追いやられ、のちのスペインの王国になる。西ゴートの王家と縁を結んでいた東ゴート王テオドリック大王が仲裁に動いたが間に合わなかった。テオドリックは、クローヴィスの妹を妻にしていた。翌年、東ローマ皇帝アナスタシウスはクローヴィスに名誉の執政官の位を贈り、彼はトゥールの教会で紫の衣と冠を身に着けて人々の前に出たという。

やり方は、他のフランクの王を一人ずつ倒すことだった。親族を含む。ケルンの王ジギベルトには、その息子をそそのかして父を殺させ、その後で息子も殺させた。ほかの王たちも、捕らえて髪を切って王の資格を奪い、あるいは自ら斧で殺した。晩年、自分には頼れる身内がもう一人もいないと嘆いてみせたのは、まだ生き残っている親族をおびき出すためだった、とグレゴリウスは書いている。

クロヴィスの没年(511年)時点のフランク王国領土
クロヴィスの没年(511年)時点のフランク王国領土Wikimedia Commons Paul Vidal de La Blache · Public domain

パリを都と定めた。511年にはオルレアンでガリアの司教たちを集めた教会会議を開き、教会と王の関係を定めた。フランク人の慣習法を書きとめた『サリカ法典』も、彼の時代にまとめられたと考えられている。

511年、パリで死に、自ら建てた聖使徒教会に葬られた。45歳前後だった。死後、慣習に従って四人の息子に王国を分けた。その分割相続が、以後のフランク王国を繰り返し分裂させることになる。

クロティルドが見守る中、クロヴィスの4人の息子に王国が分割される場面(『サン=ドニ大年代記』)
クロティルドが見守る中、クロヴィスの4人の息子に王国が分割される場面(『サン=ドニ大年代記』)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

クローヴィスに始まるメロヴィング朝は、やがて宮宰の家に実権を奪われ、ピピン3世(小ピピン)の代に王朝が替わる。それでも、フランク王国(フランク王国)とカトリック教会の結びつきは、カール大帝の戴冠へと続き、西ヨーロッパの王権と教会が結びつく起点になった。フランス語のルイという名前は、クローヴィスの名のフランク語の形から来ている。フランスでは、クローヴィスの洗礼をこの国の始まりとして語ることが多い。

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