イシュトヴァーン1世
概要
異教の首長の子として生まれ、洗礼を受け、教皇から王冠を受けた。異教に戻ろうとした親族を退け、司教区と県を置いた。死後、聖人になる。その右手がいまも祀られている。
所属
ハンガリー王国関わったできごと(1)
イシュトヴァーン1世の戴冠AD1000年(1001年説あり) · 戴冠本文
975年頃、ドナウ川の湾曲部に近いエステルゴムに生まれた。異教の名はヴァイク。マジャール人を率いてカルパチア盆地に入ったアールパード(マジャール人のパンノニア定住)の曾孫にあたる。マジャール人は長く西ヨーロッパへの略奪を繰り返していたが、955年にレヒフェルトの戦いで大敗し、略奪で生きる道を断たれていた。

父の大首長ゲーザは、周りのキリスト教国の中で生き残るには、自分たちも改宗するしかないと考えた。自身も洗礼を受けたが、古い神々への供え物もやめなかったと伝えられる。息子には本気で洗礼を受けさせ、イシュトヴァーン(ステファノ)と名付けた。996年頃、バイエルン公の娘ギーゼラと結婚した。ギーゼラの兄は、のちの神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世である。
997年に父が死ぬと、一族の長老コッパーニが、家の最年長の男が継ぐという古い相続の順を盾に、首長の座を求めた。ゲーザの未亡人を妻に迎えようともしたという。父から子へ継がせるキリスト教の王国の作り方と、草原の部族の古いしきたりとの争いだった。イシュトヴァーンは妻に従ってきたドイツの騎士たちの力を借りてこれを破り、コッパーニの体を四つに裂いて、四つの城の門に掛けさせた。

1000年のクリスマス、あるいは翌年の元日に、王として戴冠した。王冠は教皇シルウェステル2世が、皇帝オットー3世の同意のもとで贈ったものと伝えられる。皇帝の家臣ではなく、教皇から直接冠を受けたことで、ハンガリーは独立した王国として西のキリスト教世界に加わった(ハンガリー王国)。いまハンガリーの「聖なる王冠」と呼ばれる冠は、後の時代に作られたものとされる。
王国の土台を作るのが、その後の仕事だった。エステルゴムに大司教座を置き、全国に10ほどの司教区を作った。国を県に分け、王の城ごとに役人を置いた。法令では、10の村が集まって一つの教会を建てることや、日曜に働かず教会へ行くことを命じた。異教の祭りや、キリスト教を拒む者は罰した。

国内の反抗も力で抑えた。トランシルヴァニアを治めていた母方の叔父ギュラを攻めて捕らえ、南東の有力者アイトニも討った。1030年には、神聖ローマ皇帝コンラート2世の軍が攻め込んできたが、これを退けている。一方で、ハンガリーを通ってエルサレムへ向かう巡礼の道を開き、西からの巡礼者を保護した。
一人息子イムレのために、「訓戒」と呼ばれる心得を書かせた。その中には、「一つの言葉、一つの習わししかない国は弱くもろい」として、よそから来た人々を手厚く迎えるよう説く一節がある。異国の騎士や聖職者の力で国を建てた王らしい言葉で、のちのハンガリーでたびたび引かれた。

だが1031年、イムレは狩りの最中に猪に襲われて死んだ。跡継ぎを失った王は病がちになり、宮廷では後継をめぐる陰謀が渦巻いた。異教の気風を残す従兄弟のヴァズルは王の暗殺を企てたとして目をつぶされ、耳に鉛を流し込まれたと伝えられる。王はヴェネツィアの統領に嫁いだ妹の子ペーテルを後継に指名した。
1038年8月15日、聖母マリアの被昇天の祝日に亡くなった。60歳を少し過ぎていた。死の前に、子の無い自分に代わって王国を聖母に託したと伝えられる。

死後、ハンガリーは大きく揺れた。ペーテルは外国人を重く用いて反発を受け、1046年には異教に戻ろうとする反乱が起きて、ヴェネツィア出身の司教ゲッレールトが殺された。王位をめぐる争いが落ち着くまでには、およそ40年かかった。
1083年、ラースロー1世のもとで、息子イムレや司教ゲッレールトとともに聖人とされた。その右手は腐らずに残ったとされ、「聖なる右手」としてブダペストの聖イシュトヴァーン大聖堂に納められている。聖人とされた8月20日はハンガリーの建国記念日で、毎年この日、右手を納めた聖遺物箱が街を練り歩く。異教の首長の子が、国の始まりそのものとして記憶されている。