人物

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン

Hildegard of Bingen
AD1098年 – AD1179年9月17日(享年81・推定)
神聖ローマ帝国重要度 3

概要

修道院長・作曲家・薬草学者。幻視を書き記し、教皇に認められた。女性が公に神学を語れた稀な例。

所属

神聖ローマ帝国

関わったできごと(1)

ヒルデガルトの『スキヴィアス』1141年 · 著者

本文

1098年、ライン川の西、いまのドイツ西部のベルマースハイムで、貴族の家に生まれた。10人目の子として生まれ、8歳で修道院に預けられた。末の子を神に捧げる「十分の一」として、という言い方が伝わる。預けられた先は、ディジボーデンベルクの男子修道院の脇に、壁で囲われて祈りの暮らしを送っていた若い貴族の女性ユッタのもとだった。ヒルデガルトはユッタから、ラテン語の詩編を読むことと、祈りの歌い方を学んだ。正規の学問はほとんど受けていない、と本人は繰り返し書いている。

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの肖像
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

幼いころから幻視を見ていたが、40代まで人に話さなかった。話せば異端とされる恐れがある。目を開けたまま、ふつうに起きているときに、「生ける光の影」と彼女が呼ぶ光が見え、そこに言葉と像が現れたという。体の弱い子で、幻視はしばしば重い病と一緒に訪れた。

1136年にユッタが死ぬと、周りに集まっていた修道女たちを率いる長に選ばれた。1141年、42歳のとき、天から燃えるような光が下って頭と胸を満たし、見たことを書き記せという声を聞いた、と彼女は書いている。書き記すよう促され、修道士フォルマールに書き取りを手伝ってもらって、最初の幻視の書『スキヴィアス(道を知れ)』に取りかかった。

『道を知れ』の挿絵。三位一体を象徴的に表現している。
『道を知れ』の挿絵。三位一体を象徴的に表現している。Wikimedia Commons Meister des Hildegardis-Codex · Public domain

その一部が教皇に認められたことで立場が変わった。1146年、彼女は第2回十字軍を説いていたクレルヴォーのベルナールに手紙を書き、自分の幻視をどう考えるべきか尋ねた。翌年から翌々年にかけてトリーアで開かれた教会会議で、教皇エウゲニウス3世が書きかけの原稿を取り寄せ、自ら読み上げて、書き続けるよう励ましたと伝えられる。以後、公に書き、説教のために各地を回れるようになる。

1150年頃、修道院長の反対を押し切って、修道女たちを連れてビンゲンの近くのルペルツベルクに移り、自分たちの修道院を建てた。男子修道院の付属から独立した女子修道院を持つことは、簡単なことではなかった。のちにライン川の対岸のアイビンゲンにも二つ目の修道院を開いている。

『道を知れ』の挿絵。教会の処女性を示す。
『道を知れ』の挿絵。教会の処女性を示す。Wikimedia Commons Meister des Hildegardis-Codex · Public domain

残したものの幅が広い。神学書三部作、77曲の聖歌、薬草と病についての著作、そして自分で作った言語(リングア・イグノータ)まである。神学の三部作では、宇宙と人間と神の関係を、壮大な幻視の像で描いた。薬草や石、動物の効き目を書いた『自然学』と、病の原因と治療を書いた『病因と治療』は、修道院の庭と医務室での経験に根ざしている。徳と悪魔が魂を奪い合う歌劇『徳の秩序』は、筋書きのある音楽劇として最も古いものの一つとされる。リングア・イグノータは、1000語ほどの単語と独自の文字からなる、何のために作ったのか今も分からない言葉である。

音楽は、当時のグレゴリオ聖歌より音域が広く、跳躍が多い。一つの音節に長い節回しをつけ、高い音へと一気に駆け上がる。歌うのは修道女たちで、女性の声のために書かれた聖歌でもあった。

『スキヴィアス』第1部6章「天使の合唱」(リュペルツベルク写本、38r葉)
『スキヴィアス』第1部6章「天使の合唱」(リュペルツベルク写本、38r葉)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

手紙も400通近く残っている。相手は教皇、司教、修道院長、王侯から、悩みを打ち明けてくる市井の人々まで及ぶ。皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)が教皇に対抗して別の教皇を立てたときには、皇帝に厳しい言葉を書き送った。60代から70代にかけて、4度にわたって説教の旅に出て、ケルンやトリーアなどの町で、聖職者の堕落を公に責めた。女性が修道院の外で人々に説教することは、ほとんど例のないことだった(神聖ローマ帝国)。

最晩年にも、教会の上層と衝突している。1178年、破門されていた若い貴族を修道院の墓地に葬ったところ、マインツの聖職者たちは遺体を掘り出すよう命じた。ヒルデガルトは、彼は死ぬ前に教会と和解していたと言って拒み、修道院は礼拝と聖歌を禁じられた。禁令が解かれたのは翌年、死の少し前だった。

Unknown painter - Transfiguration of Christ - WGA23487
Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1179年9月17日、81歳で死んだ。幻視については、20世紀になって、片頭痛の前触れとして見える光の像と似ているという説も出されたが、本人が見たものを確かめる手立てはない。

音楽は20世紀後半に再発見されて録音され、いま広く聴かれている。薬草の知恵は民間療法の本で取り上げられ、彼女の名は修道院の外で新しい人気を得た。2012年、教皇ベネディクト16世は彼女を聖人と認め、同じ年に、教会の教えに大きく貢献した「教会博士」の一人に加えた。死から830年後になる。女性が公に神学を語れた稀な例として、その声は今も聞こえている。

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