できごと

為替手形

The bill of exchange
AD1300年頃
重要度 5
シベリアの諸集団キプチャク汗国イル汗国リャザン公国マムルーク朝ノヴゴロド公国サーミノルウェー神聖ローマ帝国ハフス朝ポーランド王国フランス王国English territoryセルジューク朝スウェーデンマクリアカスティーリャ王国カネム=ボルヌハンガリー王国ハドラマウトモロッコTeutonic Knights東ローマ帝国アラゴン王国ブルガール可汗国デンマークシチリア王国ポルトガルRaškaリトアニア大公国スコットランドオスマン帝国ヴェネツィア共和国AD1300年頃ジェノヴァ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1300年頃の版図を描いています(33勢力)。

概要

金貨を持って山を越えれば、盗まれる。ジェノヴァの商人がシャンパーニュの大市で受け取るべき代金を、現地の同業者に払わせ、その分をジェノヴァで清算する。紙の上で債権が動く。教会が利子を禁じていたので、利益は為替の相場に折り込まれた。同じ通貨を貸して利子を取れば高利貸しだが、通貨と場所が違えば、それは為替の差益である。この迂回が、金融の技術を育てた。手形は裏書きで転々と流通し、決済の網が大陸を覆った。

場所

ジェノヴァ
44.41°N 8.95°E · イタリア・リグーリア州

本文

13世紀のヨーロッパで、ジェノヴァの商人がフランス北東部のシャンパーニュの大市へ出かけ、フランドルの毛織物を仕入れるとする。代金をどうやって運ぶか。金貨を自分で持っていくのがいちばん素直だが、重い。フィレンツェの金貨フィオリーノは一枚三グラム半ほどで、千枚なら三キロ半になる。街道には盗賊が出るし、領主は通行税を取り立てる。そのうえ、各地で通る貨幣が違った。ジェノヴァにはジェノヴィーノ、フィレンツェにはフィオリーノ、ヴェネツィアにはドゥカート、フランスにはリーヴルがあり、金や銀の含まれる割合も絶えず変わった。

そこで商人たちは、金貨の代わりに紙を送るようになった。為替手形である。典型的な形では、四人が関わる。ジェノヴァで支払いたい商人Aが、ジェノヴァの両替商Bに地元の通貨で金を渡し、一枚の手形を受け取る。手形には、シャンパーニュにいるBの取引相手Cにあてて、この手形を持ってきたDに何リーヴルを支払われたし、と書いてある。Aはこれをシャンパーニュの売り手Dに送るか、自分で持っていく。Dが手形をCに見せると、Cが現地の通貨で払う。BとCのあいだの貸し借りは、逆向きの別の取引と差し引きして、あとで清算する。金貨は一枚も山を越えていない。

1939年、ラングーン(ビルマ)発行の約束手形
1939年、ラングーン(ビルマ)発行の約束手形Wikimedia Commons Central Bank of India · Public domain

為替手形には、もう一つの役目があった。教会は利子を取って金を貸すことを禁じていた。旧約聖書の申命記は、同胞から利息を取ってはならないと書き、1179年の第3ラテラノ公会議は、公然と利子を取る者には教会での埋葬を許さないと定めた。では、金を融通する者はどうやって儲けるのか。

手形はこの禁止をすり抜ける道になった。同じ通貨を貸してより多く返させれば、それは利子であり、禁じられる。しかし、ジェノヴァで一つの通貨を受け取り、シャンパーニュで別の通貨を払うなら、それは両替である。両替には相場があり、相場は動く。そこに生じる差益は、利子ではなく、危険を引き受けた報酬だ、という理屈である。トマス・アクィナスをはじめ当時の神学者たちもこの議論を知っており、両替そのものは認めつつ、その陰に隠れた利子を非難した。実務はその境目の上を歩き続けた。

1870年、ロンドンで支払われる為替手形。英国の対外手形印紙が貼付されている
1870年、ロンドンで支払われる為替手形。英国の対外手形印紙が貼付されているWikimedia Commons British Government & Oriental Bank Corporation · Public domain

実際には、手形には時間が組み込まれていた。振り出してから支払うまでには、土地の組み合わせごとに慣習で決まった期間があり、たとえばヴェネツィアとロンドンの間なら三か月ほどだった。手紙が届くのにかかる日数をもとにした期間だが、その長さと、行きと帰りの相場の差が、事実上の金利になった。金を貸したのではなく、二つの町の相場の違いで利益を得た、という形が整えられたのである。

決済の中心は大市だった。シャンパーニュの大市は、トロワ、プロヴァン、ラニー、バール=シュル=オーブの四つの町で年に六回、順繰りに開かれた。品物を売り買いする期間のあとに支払いの期間があり、各地の商人と両替商が集まって、互いの債権と債務を突き合わせて相殺した。AがBに百、BがCに百、CがAに百を負っていれば、誰も何も払わなくてよい。現金が動くのは差額だけである。14世紀にシャンパーニュの大市が衰えると、その役目はジュネーヴやリヨンの大市、さらにジェノヴァの商人たちが開いた為替の市へと移った。後者は品物を扱わず、手形の決済だけを行う市で、純粋な金融の市場だった。

1933年のベルギーの為替手形
1933年のベルギーの為替手形Wikimedia Commons loki11 · Public domain

フィレンツェの商人たちは、この仕組みを使って各地に支店の網を張った。15世紀のメディチ銀行は、ローマ、ヴェネツィア、ジュネーヴ、ブルッヘ、ロンドンなどに支店を置き、教皇庁の収入を各地から集めて送る仕事を手形で請け負った。ヨーロッパじゅうから集まる教会の税を、金貨の袋ではなく紙の上で動かしたのである。

16世紀には、決定的な工夫が加わった。手形の裏に署名して他人に譲り渡す、裏書である。これで手形は、名指しされた相手にしか使えない証書から、次々に持ち主を変えて流通する支払いの手段になった。受け取った手形を別の支払いに使い、受け取った者がさらにそれを使う。最後の持ち主が満期に現金に換える。さらに、満期前の手形を額面より少し安く買い取る取引、つまり手形の割引も広まった。三か月後に百払われる手形を九十七で買えば、差の三が実質的な金利になる。

この仕組みが積み重なって、いくつもの変化が起きた。まず、貿易の規模が金や銀の量に縛られなくなった。流通している手形は、決済されるまでの間、事実上の貨幣として働く。次に、手形を振り出し、引き受け、割引する業者が、銀行へと育っていった。銀行を指す西洋の言葉は、両替商が市場に出した台を意味するイタリア語に由来し、破産を指す言葉は、払えなくなった両替商の台が壊されたことから来たとされる。そして情報である。為替の相場には、各地の貨幣の需給や政治の動き、海の安全までが映った。商人たちは手紙の網を張って知らせを集め、のちには相場表が定期的に刷られるようになった。アウクスブルクのヤーコプ・フッガーの一族が残した通信は、当時の情報網の記録として、いまも歴史家に読まれている。

いま私たちが使う送金や銀行どうしの決済は、この構造の延長にある。紙は電子の記録に変わったが、記録が動き、現金は動かず、最後に差額だけが清算されるという原理は、山を越える金貨を嫌ったジェノヴァの商人たちのものと変わっていない。

同じ時代のできごと

イフェの頭像AD12〜15世紀ポリネシア三角形の完成AD13〜14世紀アオテアロアへの到達AD1300年頃悪党の登場AD13世紀末〜14世紀弘安の役AD1281年7月(弘安4年閏7月)授時暦AD1281年シチリアの晩祷AD1282年3月30日スコータイ朝とタイ文字AD1283年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1300年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →