ヒッティーンの戦い

概要
水の無い丘に十字軍の主力を誘い込み、一日で壊滅させた。3か月後、エルサレムが開城する。
場所
32.80°N 35.44°E · イスラエル・北部地区
関わった人(1)
サラディンAD1137年頃–AD1193年 · 総指揮本文
1099年に第1回十字軍がエルサレムを奪って以来(第1回十字軍のエルサレム占領)、地中海東岸には十字軍の国々が並んでいた。その中心がエルサレム王国である(エルサレム王国)。王国が長く生き延びられた理由の一つは、周りのイスラームの勢力が、エジプトのファーティマ朝とシリアの諸侯とに分かれ、互いに争っていたことにあった。
その構図を変えたのがサラディンである。クルド人の武将の家に生まれた彼は、1169年にエジプトの実権を握り、ファーティマ朝を終わらせてアイユーブ朝を開いた。続いてダマスクス、アレッポを従え、1186年までにエジプトからシリア、メソポタミア北部にいたる勢力をまとめあげた。十字軍の国々は、初めて一つの大きな力に東と南から挟まれることになった。

そのころエルサレム王国の内部は割れていた。1186年、王女シビーユの夫ギー・ド・リュジニャンが王位についたが、有力な諸侯、とくにトリポリ伯レーモンはこれに反発し、一時はサラーフッディーンと休戦を結ぶほど王と対立した。さらに、砂漠の城を治める領主ルノー・ド・シャティヨンが休戦を破り、エジプトとシリアを行き来する隊商を襲った。サラーフッディーンは、ルノーを自らの手で殺すと誓い、1187年の春、大軍を集めて王国に攻め入った。
7月2日、サラーフッディーンはガリラヤ湖のほとりの町ティベリアスを攻め落とした。町の城には、レーモンの妻エスキヴァが立てこもった。十字軍の主力は、西に20数キロ離れたセフォリスの泉のそばに集まっていた。騎士1200ほどを含む2万近い軍で、王国のほぼすべての兵力だった。軍議でレーモンは、自分の妻が囲まれていることを承知のうえで、真夏に水の無い道を進めば敵の思うつぼだ、泉のそばで待つべきだと説いた。しかしその夜、テンプル騎士団の総長が王に、レーモンは裏切り者で、何もしなければ王の恥になると迫った。王は翌朝の出陣を命じた。

7月3日、十字軍は東へ向かって、乾いた高原を進んだ。照りつける日差しの下、重い鎧の騎士も歩兵も水に飢え、サラーフッディーンの騎馬の弓兵が絶えず周りから矢を浴びせた。夕方になっても湖の水場まではたどり着けず、軍は水の無い台地の上で野営するしかなかった。夜のあいだ、イスラーム軍は陣の周りの枯れ草に火を放ち、煙が渇きに苦しむ兵たちを包んだ。
7月4日の朝、十字軍は、二つの峰を持つ死火山の丘、「ヒッティーンの角」の近くで囲まれた。歩兵たちは、遠くに見える湖を目指して隊列を離れ、丘へ逃げ上って戦う力を失った。歩兵の盾を失った騎士たちは、馬を射られて次々に倒れた。レーモンは一隊を率いて敵の列を突き破って逃れたが、残った王の軍は丘の上で最後の抵抗を続けた末に崩れた。戦いに携えてきた聖十字架の遺物、すなわちキリストが架けられた十字架の一部とされる王国の至宝は、イスラーム軍の手に落ちた。

ギー王とルノーは捕らえられ、サラーフッディーンの天幕に連れて来られた。サラーフッディーンは渇いた王に冷たい飲み物を与えた。王がそれをルノーに回すと、サラーフッディーンは、それを与えたのは自分ではない、と言った。客として飲み物を与えた者は殺さない、という習わしがあったからだという。サラーフッディーンは誓いを破ったルノーの罪を責め、自ら剣を振るって斬った。王は、王が王を殺すことはない、と言われて命を助けられた。捕らえられたテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の騎士たちは処刑された。
王国の兵力は、この一日でほとんど失われた。守る者のいなくなった城や町は次々に降伏し、7月のうちに港町アッコンも開城した。最後まで持ちこたえたのは、海から援軍が入ったティルスなど、わずかな町だけだった。そして10月2日、エルサレムが降伏する(サラディンのエルサレム奪還)。88年前の十字軍の占領のときとは違い、住民は身代金を払って町を去ることを許された。

ヒッティーンの敗北とエルサレムの陥落の知らせは、ヨーロッパに大きな衝撃を与えた。イングランドのリチャード1世(獅子心王)、フランスの王、神聖ローマ皇帝が立ち上がり、第3回十字軍が始まる(第三回十字軍のアッコン攻囲)。王国は海岸の細い帯としてその後100年あまり生き延びたが、エルサレムを恒久的に取り戻すことは二度となかった。