できごと

キエフ・ルーシの改宗

Christianization of Kievan Rusʹ
AD988年
重要度 4
キエフ・ルーシの改宗に関わる図版:Lebedev baptism
Lebedev baptism Wikimedia Commons Klavdy Lebedev · Public domain

概要

東方正教を選んだことで、この地域はビザンツの文化圏に入った。ロシア・ウクライナ双方が起源とする。

場所

キーウ
50.45°N 30.52°E · ウクライナ

関わった人(2)

ウラジーミル1世AD958年頃–AD1015年 · 大公バシレイオス2世AD958年–AD1025年12月15日 · 妹を嫁がせた

本文

988年頃、キエフ(キーウ)を都とするルーシの大公ウラジーミル1世が洗礼を受け、東方正教のキリスト教を国の宗教に定めた。いまのウクライナ、ロシア、ベラルーシにつながる地域が、この時からビザンツの文化圏に入った。

ルーシは、9世紀に北欧から来た人々と東スラヴの人々が交わってできた国だった(ルーシの成立)。ドニエプル川を下って黒海に出る交易路を押さえ、ビザンツの都コンスタンティノープルと戦ったり交易したりしていた。人々は雷の神ペルンなど、多くの神々を祀っていた。キリスト教はすでに入り込んでいて、ウラジーミルの祖母オリガは950年代に洗礼を受けている。だが国としての改宗には至っていなかった。

最初のルーシ人の洗礼を描いた14世紀『マナセス年代記』の挿絵
最初のルーシ人の洗礼を描いた14世紀『マナセス年代記』の挿絵Wikimedia Commons Original: Constantine Manasses · Public domain

ウラジーミル自身は、もともと熱心な異教の側の君主だった。兄弟との争いに勝って980年頃に大公の座についたあと、キエフの丘に神々の像を並べて祀っている。

ルーシの最古の歴史書『原初年代記』には、ウラジーミルがどの宗教を選ぶかを考える場面が描かれている。各地から使者が来て、自分たちの信仰を勧めた。イスラームの使者からは、酒を飲んではならないと聞いて断った。ルーシの喜びは飲むことにあり、それなしには生きられない、と言ったという。ユダヤ教の使者には、あなたがたの神はなぜ国を失わせたのか、と尋ねた。西のローマ教会の使者も退けた。そのうえで、各地に使節を送って礼拝を見させた。コンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィアの完成)を見た使節は、自分たちは天にいるのか地にいるのか分からなかった、と報告したという。

コンスタンティノープルでのオルガ公妃の洗礼(『ラジヴィウ年代記』の細密画)
コンスタンティノープルでのオルガ公妃の洗礼(『ラジヴィウ年代記』の細密画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この場面は、後から整えられた話とされる。年代記が書かれたのは改宗から100年以上あとで、正教を選んだことを正しく見せる意図がある。実際の決め手は政治だった。

そのころビザンツの皇帝バシレイオス2世は、国内の有力な将軍の反乱に苦しんでいた。皇帝はルーシに兵を求め、ウラジーミルは6000人ほどの兵を送ったとされる。見返りとして求めたのが、皇帝の妹アンナとの結婚だった。皇帝の娘や妹が外国の君主に嫁ぐことは、ビザンツでは異例だった。ウラジーミルがキリスト教徒になることが条件になった。約束がなかなか果たされないので、ウラジーミルはクリミア半島のビザンツの町ケルソネソスを攻め落とし、圧力をかけたと伝えられる。結局アンナは嫁ぎ、ウラジーミルは洗礼を受けた。このとき送られた兵が、のちに皇帝の親衛隊「ヴァリャーグ親衛隊」の始まりになったとされる。

洗礼者ウラジーミル(聖公)の像
洗礼者ウラジーミル(聖公)の像Wikimedia Commons Kamelot · Public domain

キエフに戻ったウラジーミルは、丘の上の神々の像を倒させた。ペルンの像は馬の尾に結ばれて引きずられ、ドニエプル川へ投げ込まれたと年代記は書く。住民は川に集められ、一斉に洗礼を受けた。像のあった場所には教会が建てられた。

改宗がもたらしたものは大きい。ビザンツから聖職者が来て、典礼の言葉には、ギリシア語ではなく、ブルガリアを経て伝わった教会スラヴ語が使われた。それを書き表すキリル文字が広まり、ルーシで初めて本格的に文字が使われるようになる。イコンを描く技法、石造りの教会の建て方、法と年代記を書く習慣も、ビザンツから入った。息子ヤロスラフの時代には、キエフにも聖ソフィア大聖堂が建てられた。

教会スラヴ語で書かれた『オストロミール福音書』。現存最古の東スラヴ語文献の一つ
教会スラヴ語で書かれた『オストロミール福音書』。現存最古の東スラヴ語文献の一つWikimedia Commons Public domain

一方で、どの教会を選んだかは、この地域の向きを長く決めた。1054年に東西の教会が分かれると(東西教会の分裂)、ルーシは東の側に立った。西のポーランドやハンガリーがローマの教会とラテン語の文化に入っていったのと、道が分かれた。13世紀にモンゴルが来て(バトゥの西征)キエフが荒らされたあとも、正教会は人々をつなぐ柱として残った。1453年にコンスタンティノープルが落ちると、やがてモスクワは自らを正教の守り手とし、「第三のローマ」と呼ぶ考えが生まれた。

いま、この出来事を自国の起源と呼ぶ国が二つある。ロシアは、ウラジーミルの洗礼をロシア国家とロシア正教の始まりとして語り、2016年にはモスクワのクレムリンの近くに大きな像を建てた。ウクライナは、キエフこそが都であり、この国家は自分たちの祖先の国だと語る。ルーシの歴史を誰が受け継ぐのかは、両国の間で長く争われてきた。2022年に始まった戦争のなかで、この争いはいっそう鋭いものになっている。千年以上前の大公の選択が、いまも現在の問題として語られている。

動画(1)

ロシアの歴史①ロシアの「もと」ができるまで(世界各国史プロジェクト)Historia Mundi ムンディ先生国ごとに通史を語る「世界各国史プロジェクト」の回。ロシアの歴史①「ロシアのもとができるまで」

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