エレミヤの預言
概要
滅びを語りつづけて、同胞から憎まれた預言者。神殿があるから安全だという考えを否定し、井戸に投げ込まれた。都は本当に落ちた。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
本文
紀元前7世紀の後半、ユダ王国は、大国のはざまで揺れる小さな国だった。北のイスラエル王国は100年前にアッシリアに滅ぼされている。そのアッシリアが衰え、南からはエジプトが、東からは新しく興ったバビロニアが、パレスチナをうかがっていた。
エレミヤは、エルサレムの北東のアナトトという村の、祭司の家に生まれた。聖書のエレミヤ書によれば、ヨシヤ王の治世の13年目、紀元前627年ごろ、まだ若者だった彼に神の言葉が臨んだ。自分は若すぎて語れない、と尻込みするエレミヤに、神は、諸国民の上に立てて、引き抜き、壊し、そして建て、植えさせる、と告げたという。

ヨシヤ王は、異国の神々の祭壇を壊し、エルサレムの神殿だけで神を礼拝するよう国を改めた王だった(ヨシヤの改革)。だが紀元前609年、ヨシヤは北へ向かうエジプトの軍を止めようとして、メギッドで戦死した。王の死とともに改革の熱は冷め、ユダはエジプト、続いてバビロニアの言いなりになっていく。
ヨシヤの子エホヤキムが王になった頃、エレミヤは神殿の門に立って語った。人々は、ここに神の神殿があるのだから、この都は落ちない、と信じていた。100年前、アッシリアの大軍がエルサレムを囲みながら、なぜか引き揚げていった記憶があった。神殿があるかぎり神が守ってくれる。それが当時の常識だった。

エレミヤは、それを否定した。神殿、神殿、神殿と唱えても救いにはならない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、ほかの神々に従いながら、この家に来て、我らは救われたと言うのか。お前たちは神の家を強盗の巣にしている。かつて神の箱が置かれていたシロの聖所も滅ぼされたではないか、と。
祭司と預言者たちは怒り、エレミヤを死刑にせよと叫んだ。役人の一人がかばって、エレミヤは命拾いした。

紀元前605年、バビロニアの王ネブカドネザル2世がエジプト軍を破り、パレスチナの国々はバビロニアに従った。エレミヤは、バビロニアの支配は神が定めたものだから逆らうな、と説き続けた。弟子の書記バルクに、自分の預言を巻物に書き取らせると、王エホヤキムは、読み上げられる巻物を数段ごとに小刀で切り取り、火鉢にくべて燃やし尽くした。エレミヤは、同じ言葉をもう一度書き取らせた。
紀元前597年、ユダはバビロニアに背いて攻められ、王と貴族と職人たちが、バビロンへ連れ去られた。次の王ゼデキヤの時代、エレミヤは首に木の軛(くびき)をかけて町を歩き、バビロンの軛に首を差し出せ、と身ぶりで示した。すぐに帰れると説く別の預言者がその軛を折ると、エレミヤは、木の軛は折れても鉄の軛が代わりに来る、と答えた。バビロンに連れ去られた人々には手紙を送り、その地で家を建て、畑を作り、子を育て、その町の平安を祈れ、と書いた。

降伏を説く言葉は、包囲された都では利敵行為になる。紀元前588年、バビロニアの軍がエルサレムを囲むと、エレミヤは捕らえられ、水の無い井戸に投げ込まれて泥に沈んだ。王宮に仕えるエチオピア人の宦官が王に願い出て、古布を綱に結んで引き上げたという。包囲のさなか、エレミヤは故郷アナトトの畑を、親族から代金を払って買い取った。いつかこの地で再び家と畑が売り買いされる日が来る、というしるしだった。
紀元前586年、都が落ちた(バビロン捕囚)。神殿が焼かれ、王は目をつぶされて連れ去られ、多くの住民がバビロンへ移された。エレミヤはバビロニアの側から自由を許され、残された人々とともに国に留まった。だが、バビロニアが立てた総督が暗殺されると、報復を恐れた人々はエジプトへ逃れ、嫌がるエレミヤを連れていった。エジプトでも語り続けたことが記されているが、その後どうなったかは分からない。

外れなかった預言者として、エレミヤの言葉は書き残された。ただし、エレミヤ書はエレミヤ自身の言葉に加えて、バルクらによる記録や、後の時代に加えられた部分を含むと考えられている。『哀歌』も古くからエレミヤの作とされてきたが、いまの研究ではそうは見られていない。
エレミヤは、滅びのあとの希望も語った。神は、石の板にではなく人の心に、新しい契約を書き記す、という言葉は、のちのユダヤ教とキリスト教に大きな影響を与えた。神殿という建物ではなく、心と行いのなかに信仰を置くこの考え方が、神殿を失った人々が捕囚の地で信仰を保つ支えになった。英語には、長々と続く嘆きや非難を「ジェレミアード」と呼ぶ言葉が残っている。