イシュトヴァーン1世の戴冠
概要
マジャール人の首長が、教皇から王冠を受けてキリスト教の王になった。異教の親族を退け、司教区を置き、県を作る。ハンガリーという国がここから数えられる。
場所
47.79°N 18.74°E · ハンガリー
関わった人(1)
イシュトヴァーン1世AD975年頃–AD1038年8月15日 · 戴冠本文
9世紀の終わり、東の草原から来た遊牧の民マジャール人が、カルパチア山脈に囲まれた盆地に住み着いた(マジャール人のパンノニア定住)。それから半世紀、彼らの騎馬の軍は西ヨーロッパの各地を襲い、ドイツやイタリア、遠くフランスまで荒らした。だが955年、ドイツ王オットー1世の軍にレヒフェルトで大敗する(レヒフェルトの戦い)。襲撃の時代は終わり、マジャール人は盆地に腰を落ち着けて、周りのキリスト教の国々とどう付き合うかを考えなければならなくなった。
その道を選んだのが、首長のゲーザだった。ゲーザは西のドイツと和を結び、キリスト教の宣教師を受け入れ、自らも洗礼を受けた。ただ、古い神々への祭りもやめなかったと伝えられる。その子ヴァイクは、975年ごろに生まれたとされる。洗礼を受けてイシュトヴァーン(ステファノ)と名乗り、バイエルン公の娘ギーゼラを妻に迎えた。ギーゼラの兄は、のちのドイツ王で皇帝となるハインリヒ2世である。

997年、ゲーザが死ぬと、一族の年長者コッパーニが後継ぎの座を求めた。マジャール人の古いならわしでは、一族の最年長の男が首長を継ぐことになっていた。コッパーニはゲーザの未亡人を妻にしようとし、異教の古いしきたりを守る人々の支持を集めた。イシュトヴァーン1世は、妻に付いてきたドイツの騎士たちの力も借りてコッパーニを破った。年代記によれば、コッパーニの遺体は四つに切られ、各地の城門にさらされたという。
1000年のクリスマス、あるいは1001年の元日、イシュトヴァーンは王として戴冠した。王冠は、ローマ教皇シルウェステル2世から送られたものだった。同じ時代のドイツの年代記は、これが皇帝オットー3世の好意と勧めのもとで行われたと書いている。皇帝は、キリスト教の王たちが並び立つ新しいヨーロッパを思い描いていた。数十年前には隣のポーランドがキリスト教を受け入れ(ポーランドの受洗)、東ではキエフの大公も改宗していた(キエフ・ルーシの改宗)。ヨーロッパの東の端に、新しいキリスト教の王国が次々に生まれていた時代である。

王冠を教皇から受けたことには、大きな意味があった。ドイツの王の家来として位を授かったのではなく、ドイツの王とは別の、独立した王国の王になったのである。962年にオットー1世の戴冠で始まった帝国の中に、ハンガリーは入らなかった。
王となったイシュトヴァーンは、国の形を作り変えた。エステルゴムに大司教を置き、国の各地に司教区を設けて、その数は治世の終わりまでに10ほどになった。十の村ごとに一つ教会を建てよ、と定めた法も残っている。国土は県(メジェ)に分けられ、王が任じた長官が城を拠点に治めた。部族の長が土地と人を握る仕組みを、王と教会が治める仕組みに置き換えていったのである。

王が息子に与えたとされる訓戒の書が残っている。そこには、一つの言葉、一つの習わししかない国は弱くもろい、だから外から来た人々を手厚く迎えよ、という意味の一節がある。王の周りには、ドイツやイタリアから来た聖職者や騎士が多くいた。
だが、王の晩年は不幸だった。後を継ぐはずの一人息子イムレが、1031年に狩りの事故で死んだ。王は、異教に心を寄せるとみた従兄弟の一人を退け、目をつぶさせたと伝えられる。そして甥にあたるヴェネツィア生まれのピエトロを後継ぎに選んだ。1038年8月15日にイシュトヴァーンが死ぬと、国は後継ぎをめぐる争いと異教の反乱で揺れた。それでも、王国そのものは崩れなかった。

1083年、イシュトヴァーンは聖人に列せられた。このとき遺骸が改めて祀られた8月20日は、いまもハンガリーの国の祝日である。「聖イシュトヴァーンの王冠」と呼ばれる冠は、ハンガリーの王権の象徴として代々受け継がれてきた。ただし、いま残る冠は、作りの調べからイシュトヴァーンの時代より後に作られたものと考えられている。第二次世界大戦の終わりに国外へ運び出されてアメリカが預かり、1978年に返された。2000年からはブダペストの国会議事堂に置かれている。ハンガリーという国の歴史は、この戴冠から数えられる。