アウグスティヌス
概要
北アフリカの司教。ローマが略奪された衝撃に答えて『神の国』を書き、中世の思考の枠を作った。
所属
ローマ帝国関わったできごと(2)
アウグスティヌスの回心AD386年8月 · 回心『神の国』413年 · 著者本文
354年11月13日、北アフリカのローマ属州ヌミディアの小都市タガステ、いまのアルジェリアのスーク・アハラスに生まれた。父パトリキウスは伝統の神々を信じる小地主で、短気な人だったという。母モニカは熱心なキリスト教徒で、息子が信仰に入ることを生涯祈り続けた。家は豊かではなかったが、両親は息子の才能に賭け、無理をして勉学に出した。

のちに書いた『告白』は、その少年時代を容赦なく振り返る。16歳の頃、仲間と夜中に隣家の梨の木から実を盗んだ。腹が減っていたわけでも、梨がおいしかったわけでもない。食べずに豚に投げ与えた。ただ、してはならないことをするのが楽しかったのだ、と書き、その心の動きを何ページにもわたって問い詰めている。
17歳で大都市カルタゴに出て、修辞学(弁論の技術)を学んだ。そこで一人の女性と暮らし始め、15年ほど連れ添って、息子アデオダトゥスをもうけている。19歳のとき、キケロの失われた著作『ホルテンシウス』を読んで、知恵そのものを愛する心に火がついた。だが聖書を開いてみると、キケロの文章に比べて素朴で野暮に思えた。

代わりに惹かれたのが、マニ教の成立だった。世界は光と闇、善と悪の二つの原理が争う場であり、人の悪は自分の外から来る闇の力のせいだ、という教えである。アウグスティヌスはおよそ9年、この教団の聴講者として過ごした。だが、教団の高名な教師に会って疑問をぶつけても、満足のいく答えは得られなかった。
修辞学の教師として、故郷、カルタゴ、ローマと移り、384年、30歳で帝国の都の一つミラノの公式の弁論術教授の職を得た。出世の頂点である。ここで司教アンブロシウスの説教を聞くようになる。初めは話術を学ぶつもりで通ったが、聖書の言葉を比喩として深く読み解くアンブロシウスの解き方に、心を動かされた。プロティノスらの新プラトン主義の書物も読み、悪とは何かが存在することではなく、善が欠けていることなのだ、という考えに出会った。

よい家との縁組のため、長く連れ添った女性はアフリカへ帰された。彼女の名は伝わっていない。アウグスティヌスはその頃の自分の祈りを、主よ、私に貞潔をお与えください、ただし今すぐにではなく、と正直に書いている。頭では信仰を受け入れながら、生き方を変えられずにいた。
386年の夏、ミラノの家の庭で、彼は泣いていた。そのとき、隣の家から子どもの声で、取って読め、取って読め、と歌うように繰り返すのが聞こえた。聖書を開くと、目に飛び込んできたのはパウロの手紙の、酒宴と酩酊、淫乱と好色を捨て、主イエス・キリストを着よ、という一節だった。これが回心の場面として『告白』に描かれている(アウグスティヌスの回心)。翌387年の復活祭に、息子とともにアンブロシウスから洗礼を受けた。アフリカへ帰る途中、港町オスティアで母モニカが亡くなった。

故郷に戻って仲間と修道生活を始めたが、391年、港町ヒッポを訪れた際、教会に集まった人々に取り囲まれ、半ば無理やり司祭にされた。数年後には司教になり、以後30年余りをこの町で過ごす。説教をし、裁判を引き受け、貧しい人の世話をする日々の中で、膨大な著作を書いた。
400年頃までに書き上げた『告白』は、自分の内面の動きを神に語りかける形でたどった本である。過去の罪や迷いを、それがなぜ起きたのかまで掘り下げて書いた。後半では、記憶とは何か、時間とは何かを問う。時間とは何か、誰も私に尋ねなければ私は知っている、尋ねられて説明しようとすると知らない、という一節はよく知られている。自分の内面を素材にしたこうした書物は、それ以前にはほとんど無かった。
410年、西ゴート族がローマを略奪した(西ゴートのローマ略奪)。永遠の都が蛮族の手に落ちたのは、古い神々を捨ててキリスト教を受け入れたせいだ、という声が上がった。アウグスティヌスはこれに答えるため、13年あまりをかけて22巻の『神の国』を書いた(『神の国』)。人間の歴史には、自己への愛でできた「地の国」と、神への愛でできた「神の国」という二つの国が混ざり合って流れている。ローマもまた地上の国の一つにすぎず、その滅びは信仰の滅びではない、と論じた。

司教としての後半生は、論争の連続でもあった。罪を犯した聖職者の授ける秘跡は無効だと主張するドナトゥス派と争い、人は自分の意志と努力で救われうると説くペラギウスの一派とも争った。人間は生まれながらに罪を負い、救いは神の恵みによるほかない、とする彼の主張は、のちの西方教会の教えの柱になった。異端に対して国家の力を使うことを認めたことは、後世に影を落としたとも言われる。
晩年、ゲルマン人のヴァンダル族がイベリア半島から北アフリカへ渡り、町々を落としていった。430年、ヒッポも包囲された。アウグスティヌスは病の床で、悔い改めの詩篇を壁に貼らせて読み続け、包囲の3か月目の8月28日に亡くなった。75歳だった。町はやがて落ちたが、彼の書庫は焼けずに残ったと伝えられる。9年後にはカルタゴも陥落する(ガイセリックのカルタゴ占領)。

中世の神学は、彼の書いたものを土台に組み立てられた。1000年後、アウグスティヌス修道会の修道士だったマルティン・ルターは、恵みによる救いという彼の考えを掲げて宗教改革を始めることになる。