ボニファティウス8世
概要
前の教皇を退位させて自分が選ばれた、という噂を生涯背負った。1300年に最初の聖年を定め、「すべての人は教皇に従わねば救われない」と勅書に書いた。フランス王に捕えられ、その屈辱で死んだ。ダンテは地獄に席を用意した。
関わったできごと(1)
アナーニ事件AD1303年9月7日 · 教皇本文
ボニファティウス8世は、13世紀の終わりから14世紀の初めにかけてのローマ教皇である。教皇の権威は世俗のすべての王の上にあると、中世で最も強い言葉で宣言した人であり、その直後にフランス王の手の者に捕らえられ、ひと月後に死んだ。教皇権の頂点と転落が、一人の生涯の中で起きた。

本名はベネデット・カエターニ。1230年ごろ、ローマの南東の町アナーニの貴族の家に生まれた。ボローニャで教会法を学び、教皇庁の外交官として各国を回って経験を積み、1281年に枢機卿になった。法に明るく、交渉に長け、そして傲慢で怒りっぽい人だったと、同時代の人々は口をそろえる。
彼が教皇になったいきさつは、生涯ついて回る噂を生んだ。1294年、2年以上も教皇の座が空いた末に、枢機卿たちは山にこもる80歳を過ぎた隠者ピエトロ・ダ・モッローネを選び、彼はケレスティヌス5世となった。だが世事に疎い新教皇は、ナポリ王の言いなりになって教皇庁を混乱させ、5か月で自ら退位を望んだ。教皇が退位できるのかという法の問題に、教会法の専門家として道を開いたのがカエターニだった。12月13日にケレスティヌスが退位し、24日にカエターニが新しい教皇に選ばれた。敵対する人々は、カエターニが夜ごと老教皇の寝室の壁に管を通し、天の声を装って退位を囁いたのだと言いふらした。ボニファティウスは前教皇が対立する勢力に担がれるのを恐れ、ローマ南方のフーモネの城に閉じ込めた。ケレスティヌスは1296年にそこで死んだ。
ボニファティウスはローマの名門コロンナ家と激しく争った。コロンナ家は教皇の選出を疑い、1297年には一族の者が教皇の財宝を運ぶ一行を襲った。ボニファティウスはコロンナ家の二人の枢機卿を罷免し、彼らに対して十字軍を宣言して、一族の本拠パレストリーナの町を破壊させた。その地に塩をまいて耕せないようにしたとも伝えられる。逃れたコロンナ家の人々は、教皇の宿敵となるフランス王のもとに身を寄せた。
1300年、ボニファティウスは初めての「聖年」を定め、この年にローマの聖ペトロと聖パウロの聖堂に詣でた者には罪の罰の完全な赦しを与えると布告した。ヨーロッパ中から巡礼が押し寄せ、フィレンツェの年代記作者ヴィッラーニは、ローマには常に20万人の巡礼がいたと書いている。教皇が布告する姿を描いたとされる壁画の断片が、ラテラノ大聖堂に残っており、ジョットの作とも言われる。ダンテ・アリギエーリの『神曲』は、物語の舞台をこの1300年の復活祭の時期に置いている(『神曲』)。

教皇の前に立ちはだかったのは、フランス王フィリップ4世(美男王)だった。1296年、ボニファティウスは、教皇の許しなく王が聖職者に税を課すことを禁じる勅書を出し、イングランドとの戦費を聖職者からも取ろうとしていたフランス王と衝突した。いったんは教皇が折れたが、1301年、フィリップが南フランスの司教を反逆の罪で捕らえると、争いは再燃した。フィリップは1302年、聖職者・貴族・都市の代表を集めた会議を開いて国内の支持を固めた。同じ年の11月、ボニファティウスは勅書「ウナム・サンクタム」を出した。霊的な剣と世俗の剣の二本はどちらも教会のものであり、世俗の剣は教会のために王の手で振るわれる。そして、すべての人間にとって、救われるためにはローマ教皇に従うことが絶対に必要である、と。これは、カノッサの屈辱の時代から続く教皇権の主張の、最も徹底した言葉だった。
フィリップの答えは力だった。1303年9月7日、王の側近ギヨーム・ド・ノガレと、コロンナ家のシアッラ・コロンナが兵を率いて、夏を過ごしていたアナーニの教皇の館に押し入った(アナーニ事件)。彼らは教皇を廃位して裁判にかけるためフランスへ連れて行こうとしたが、捕らえられたボニファティウスは、私の首をはねよ、教皇として死ぬ、と言い放ったと伝えられる。シアッラ・コロンナが教皇の顔を殴ったという話は後世の脚色とされる。3日後、町の人々が蜂起して教皇を救い出した。ボニファティウスはローマへ戻ったが、心身ともに打ちのめされ、10月11日に死んだ。70歳を過ぎていた。

死んだ後も、彼は休ませてもらえなかった。フィリップは、ボニファティウスが異端者だったとして死後の裁判を開くよう教皇庁に迫った。告発の中身は、魂は死ねば終わると言った、自分の像を各地に立てさせて偶像崇拝をした、男色にふけった、などである。1309年から教皇庁はフランスの影響下でアヴィニョンに移っており(教皇のアヴィニョン捕囚)、フランス出身の教皇クレメンス5世は王の圧力をかわしきれず、1310年に証人の聴取が始まった。結局、クレメンスは1311年、フィリップの行いは善意からのものだったと認めて裁判を終わらせた。同じころ王が強く求めていたテンプル騎士団の取り潰しに、教皇が応じたことと引き換えだったとみる研究者は多い。
ダンテは、フィレンツェを追われた原因の一つをボニファティウスの政治介入に見ていて、彼を憎んだ。『神曲』地獄篇第19歌では、聖職売買の罪人が頭を下にして穴に埋められ、足の裏を炎で焼かれている。その一人である教皇ニコラウス3世は、ダンテの声を聞いて「もう来たのか、ボニファティウス」と叫ぶ。1300年の時点でまだ生きているボニファティウスのために、地獄の席がすでに用意されているのである。ところが同じダンテは、煉獄篇では、アナーニの事件をキリストその人が再び捕らえられたかのような冒涜として嘆いている。人としての教皇は憎んでも、教皇の座への暴力は許さなかった。

ボニファティウスは、教会法の集成『第六書』を編ませ、ローマに大学を開いた教養ある教皇でもあった。だが彼の後、教皇は70年近くアヴィニョンに住み、続いて教会大分裂が起きる。王の上に立つ教皇という中世の理想は、彼の言葉で最高の高さに達し、彼の屈辱とともに崩れ始めた。