第四回十字軍

概要
エジプトへ行くはずが、ヴェネツィアへの船賃を払えず、ザラを落とし、ビザンツの亡命皇子に雇われ、コンスタンティノープルを3日略奪した。聖ソフィアに娼婦を座らせた。四頭の馬はヴェネツィアへ。ラテン帝国57年。ビザンツは1261年に戻ったが、二度と大きくならなかった。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
本文
1187年、サラディンがエルサレムを取った。英仏独の王が出た第三回十字軍は第三回十字軍のアッコン攻囲を落としたものの、聖都は取り戻せなかった。1198年、37歳で教皇となったインノケンティウス3世は、即位の年のうちに新しい十字軍を呼びかけた。王たちは互いの戦争で手一杯で、応じたのは北フランスの諸侯だった。1199年11月、シャンパーニュのエクリで開かれた騎馬試合の場で、シャンパーニュ伯ティボーとブロワ伯ルイが十字を受け、翌年にはフランドル伯ボードゥアンが加わった。
諸侯は海路を選び、船を求めてヴェネツィアと交渉した。1201年、ドージェ(元首)のエンリコ・ダンドロと結んだ条約は、騎士4500、従士9000、歩兵2万、馬4500、合わせて3万3500人を運び、1年間の食糧を用意する代わりに、8万5000マルクの銀を払うというものだった。ヴェネツィアは自ら50隻のガレー船を出し、得たものは折半する。行き先は表向き聖地だったが、指導者たちの間では、まずイスラーム勢力の富の中心であるエジプトを突くことが決まっていた。ダンドロは90歳前後とされ、目がほとんど見えなかったが、この遠征の行方を最後まで握ることになる。

計算は最初から狂った。発起人のティボーが若くして病死し、北イタリアのモンフェッラート侯ボニファーチョが総大将に迎えられた。1202年の夏、ヴェネツィアのリド島に集まったのは見込みの3分の1ほどの1万2000人前後にすぎず、ほかの者は別の港から勝手に船出していた。ヴェネツィアは約束どおり船団を用意しており、支払いは3万4000マルクほど足りなかった。ダンドロは提案した。アドリア海の対岸の港町ザラ(いまのクロアチアのザダル)を取り戻すのを手伝ってくれれば、借りは後で取り立てる。ザラはヴェネツィアの支配を嫌ってハンガリー王についた町で、そのハンガリー王自身が十字軍の誓いを立てていた。
1202年11月、十字軍はザラを包囲し、2週間ほどで落とした。キリスト教徒の町を、しかも十字軍の誓いをした王の町を攻めたことに、教皇は怒って全軍を破門した。のちにフランスの諸侯の破門は解いたが、ヴェネツィア人は破門のまま残した。ザラで冬を越す十字軍のもとへ、もう一つの話が持ち込まれた。ビザンツ帝国の皇帝イサキオス2世は、1195年に兄のアレクシオス3世に帝位を奪われ、目を潰されて幽閉されていた。その息子のアレクシオスが西へ逃れてきて、こう申し出た。自分と父を帝位に戻してくれれば、20万マルクを払い、1万の兵をエジプト遠征に出し、聖地に500騎を常駐させ、ギリシアの教会をローマ教皇の下に置く。借金に苦しむ十字軍にとって、これ以上の話はなかった。反対して隊を離れた者もいたが、多くはこれに乗った。

1203年6月、艦隊はコンスタンティノープル遷都以来の都、コンスタンティノープルの前に現れた。7月、十字軍とヴェネツィアの艦隊が攻めかかると、アレクシオス3世は財宝を持って逃げ出し、盲目のイサキオス2世が復位して、息子がアレクシオス4世として共同皇帝になった。ところが約束の金は帝国の金庫に無かった。皇帝は教会の器や聖像の飾りを溶かして払おうとし、重税をかけ、市民の怒りを買った。8月には市内の衝突から大火が起き、町の広い範囲が焼けた。1204年の初め、宮廷の高官アレクシオス・ドゥーカス(ムルツフロスとあだ名された)がクーデターを起こし、アレクシオス4世を絞め殺して、アレクシオス5世として即位した。十字軍への支払いは打ち切られた。
十字軍とヴェネツィアは3月、都を攻め取った後の取り決めを結んだ。戦利品の分け方と、新しい皇帝を両者の選挙人で選ぶこと、帝国の土地の分け方である。4月9日の攻撃は退けられた。4月12日、船を二隻ずつつないで金角湾側の城壁の塔に橋を掛け、兵が城壁に取りついた。城門が破られ、アレクシオス5世は夜のうちに逃げた。翌日から3日間、都は略奪された(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。遠征に加わったシャンパーニュの元帥ヴィルアルドゥアンは、世界が始まって以来、一つの町でこれほどの戦利品が取られたことはない、と書いた。ビザンツの歴史家ニケタス・コニアテスは、聖ソフィア大聖堂で祭壇が打ち割られ、娼婦が総主教の座に座って歌ったと記し、エルサレムを取ったサラディンのほうが、この十字軍よりもはるかに寛大だったと嘆いた。

奪われた財宝と聖遺物は西ヨーロッパ中の教会へ散った。競馬場の飾りだった4頭の青銅の馬はヴェネツィアに運ばれ、サン・マルコ大聖堂の正面に据えられた。いま外に立っているのは複製で、本物は大聖堂の中に移されている。5月、フランドル伯ボードゥアンがラテン皇帝として戴冠した。ダンドロは「ローマ帝国の4分の1と半分の主」という称号を得た。8分の3である。ヴェネツィアはクレタ島やエウボイア島、エーゲ海の島々と港を手に入れ、東地中海の交易の覇者になった。ダンドロは翌1205年に死に、聖ソフィアに葬られた。
ビザンツの側は、ニカイア、エピロス、トレビゾンドに亡命政権を立てて抵抗した。1261年、ニカイアの皇帝ミカエル8世パレオロゴスが都を取り戻したが、帝国の領土と富はもう戻らなかった。弱った帝国は14世紀にオスマン勢力の伸長を食い止められず、1453年のコンスタンティノープル陥落を迎える。

インノケンティウス3世は、はじめは都の征服を東西の教会が一つになる機会として歓迎したが、略奪の様子が伝わると、十字軍がギリシア人にラテン人への憎しみを植え付けたと非難する手紙を書いた。実際、東西教会の分裂で始まった東西の教会の溝は、この出来事で人々の記憶に刻まれ、決定的なものになったといわれる。聖地へ向かうはずの遠征が、なぜキリスト教の都へ向かったのかについては、ヴェネツィアやボニファーチョが最初から仕組んだという陰謀説と、借金と偶然が重なった結果だという見方があり、後者を取る研究者が多い。2001年、教皇ヨハネ・パウロ2世はアテネで、この出来事についての悔恨を表明した。2004年、800年目の年に、コンスタンティノープル総主教バルトロメオス1世はその謝罪を受け入れると述べた。