できごと

カトワーンの戦い

Battle of Qatwan
AD1141年9月
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民クマン=キプチャク連合モンゴル系の人びとフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民金(女真)チベットキエフ・ルーシカラハン朝宋セルジューク朝ファーティマ朝サーミガズナ朝西夏オグズスコータイ朝東ローマ帝国ヴォルガ・ブルガールマクリアWestern Chalukyasルーム・セルジューク朝チョーラ朝ヒンドゥーの諸王国クメール帝国南詔スームラ朝パーラ朝南詔と大理パガン朝ハンガリー王国アルワブルガール可汗国プラティーハーラ朝SolankisアランハドラマウトイエメンSenasParamasChandellas大越大越アルメニアチャーハマーナ朝ピュー(驃)の諸都市Klachurisモンの諸国ジョージア王国チャンパKarakalpaksマスカットポロツク公国エルサレム王国AD1141年9月カトワーン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1141年9月の版図を描いています(54勢力)。

概要

遼の王族耶律大石が西へ逃げて建てた西遼(カラ・キタイ)が、サマルカンドの北でセルジューク朝のサンジャルを破った。イスラームの軍が東の異教徒に負けた。ヨーロッパに「東方のキリスト教の王が来る」と伝わり、プレスター・ジョンの伝説になった。

場所

カトワーン
39.80°N 66.90°E · ウズベキスタン・サマルカンド近郊

関わった人(1)

耶律大石AD1087年–AD1143年 · 勝った

本文

12世紀の初め、中国の北半分とモンゴル高原を200年にわたって支配してきた契丹人の遼(遼(契丹))は、東北の森から興った女真人の金(金(女真))に攻め立てられていた。遼の王族の一人で、漢文の学問を修めて科挙の最高の試験にも合格していた耶律大石は、敗走を重ねる皇帝と意見が合わず、1124年、一団を率いて西へ去った。翌1125年、皇帝は金に捕えられ、遼は滅んだ。

耶律大石はモンゴル高原の西にあった遼の砦、可敦城に入り、周辺の七つの州と十八の部族の長を集めて、遼の復興を誓った。だが東の金はあまりに強く、大石はさらに西の、イスラーム世界の東の縁へ向かった。1130年代の初め、彼は「グル・ハン」(諸汗の汗)の称号を名乗る。天山の北のバラサグンでは、遊牧民に悩まされていたカラハン朝の君主が助けを求め、大石はそのまま町を手に入れて都とした。これが西遼、イスラームの側の呼び名でカラ・キタイ(黒い契丹)である。

1137年、西遼の軍はフェルガナのホジェンドで、サマルカンドを治める西カラハン朝の君主マフムード2世を破った。マフムードは、主筋にあたるセルジューク朝(セルジューク朝)の大スルタン、サンジャルに助けを求めた。サンジャルはホラーサーンを本拠に40年近く東方のイスラーム世界に君臨してきた、セルジューク朝の最後の大スルタンである。そのころ、西遼に従っていたテュルク系の遊牧民カルルクがサンジャルのもとに逃げ込み、両者の対立は決定的になった。

1141年、サンジャルはホラーサーン、シスターン、ゴール、ガズナなど各地の兵を集め、大軍を率いてアム川を渡った。その数は10万とも伝えられるが、確かではない。9月9日、両軍はサマルカンドの北のカトワーンの草原でぶつかった。耶律大石は軍を分けて敵の両翼を攻め、サンジャルの軍をダルガムと呼ばれる谷へ追い込んで包囲した。逃げ場を失ったイスラームの軍は崩れ、多くの兵が討たれた。サンジャルはわずかな供回りと戦場を逃れたが、妃は捕えられた。

イスラームの側の年代記作者たちは、この敗北を深い衝撃とともに書き残した。13世紀の歴史家イブン・アル=アシールも、これをかつてない大敗として記している。それまで東の果てで異教徒の遊牧民を打ち負かしてきたイスラームの大軍が、仏教を信じる東方の民に大敗したのである。

勝った西遼は、サマルカンドとブハラを従え、西のホラズムにも貢ぎ物を納めさせた。西遼の支配はゆるやかで、各地の君主をそのまま残して貢納を取るだけで、改宗を迫ることもなかった。支配層の契丹人は仏教を信じ、中国風の称号と暦を使い続けた。中央アジアのイスラームの町々を、漢字を知る仏教徒の王が治める時代が、およそ80年続いた。耶律大石は1143年ごろに死んだ。1211年、モンゴルに追われてきたナイマンの王子クチュルクが西遼の王位を奪い、1218年、チンギス・ハンの軍がクチュルクを討って、西遼は消えた。

カトワーンの知らせは、思わぬ形でヨーロッパに届いた。1145年、ドイツのフライジングの司教オットーは、教皇のもとでシリアのジャバラの司教ユーグに会い、こんな話を聞いた。ペルシアとアルメニアのさらに東に、ヨハネスという王であり司祭でもある人がいて、ネストリウス派(ネストリウス)のキリスト教徒である。彼はペルシアの王たちを打ち破り、エルサレムの教会を助けに向かったが、ティグリス川を渡れずに引き返した、と。オットーはこれを年代記に書き留めた。ペルシアの王を破った東方の王とは、サンジャルを破った耶律大石の話が、伝わるうちに姿を変えたものだと考えられている。ネストリウス派の信者は実際に中央アジアに多く、話が膨らむ土壌があった。

これがプレスター・ジョン(司祭ヨハネ)の伝説の始まりになった。1165年ごろには、プレスター・ジョン自身がビザンツ皇帝に宛てたという手紙が出回った。彼の国には珍しい獣と宝石があふれ、若返りの泉が湧く、と書かれたこの手紙は、もちろん偽物だったが、各国の言葉に訳されて広く読まれた。十字軍が苦境に立つたび、東から援軍が来るという期待が語られた。13世紀には、モンゴルの君主たちがプレスター・ジョンではないかと期待され、1245年に教皇の使節としてモンゴルへ向かったプラノ・カルピニの報告にもその名が見える。やがて伝説の王国はアフリカのエチオピアに重ねられ、15世紀のポルトガルは、香料の道とともにこの王を探してアフリカの海岸を南へ進んだ。

仏教徒の契丹人の勝利が、ヨーロッパではキリスト教の王の伝説になり、それが数百年にわたって探検の動機の一つになったのである。

同じ時代のできごと

ヴォルムス協約AD1122年靖康の変AD1127年ルッジェーロ2世のシチリア王国AD1130年12月25日ヒルデガルトの『スキヴィアス』1141年紹興の和議と岳飛の死AD1141年サン・ドニ修道院とゴシックの始まりAD1144年エデッサ伯領の陥落AD1144年12月24日高麗青磁AD1150年頃
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