人物

パトリキウス(聖パトリック)

Saint Patrick
AD385年頃 – AD461年頃(享年76・推定)
アイルランド重要度 4

概要

ブリタニアの助祭の子で、16歳で海賊にさらわれ、アイルランドで6年羊を飼った。夢で船を見て逃げ、司教になって戻った。『告白』を自分で書き、「私は最も無学な者」と繰り返す。三つ葉のクローバーで三位一体を教えた話は後世のもの。

関わったできごと(1)

パトリキウスのアイルランド布教AD432年(伝承) · 宣教

本文

パトリキウスは、アイルランドにキリスト教を広めた聖人として、英語名のパトリックで知られる。ラテン語のパトリキウスは「貴族の」という意味で、当時のローマ世界ではありふれた名前だった。5世紀の人物で、生没年ははっきりしない。だがこの人には、同じ時代のほかの聖人にはない手がかりがある。自分で書いた文章が二つ残っているのである。一つは晩年に半生を振り返った『告白』、もう一つはある王の兵士たちに宛てた抗議の手紙だ。

聖パトリックの墓とされる場所、ダウンパトリック
聖パトリックの墓とされる場所、ダウンパトリックWikimedia Commons August Schwerdfeger · CC BY 4.0

『告白』は、自分を罪人で最も無学な者と呼ぶところから始まる。父カルポルニウスは教会の助祭で、町の参事会員でもあり、祖父ポティトゥスは司祭だった。一家はバンナウェム・タブルニアエという村の近くに小さな地所を持っていた。この村がどこかは分かっていない。ローマ支配下のブリタニアの西側、ウェールズかイングランド北西部、あるいはスコットランドの南西部のどこかとされる。ローマの軍団は5世紀の初めにブリタニアから引き揚げており(それ以前の支配はクラウディウスのブリタニア征服に始まる)、海の向こうからの襲撃が絶えない時代だった。

16歳になる少し前、彼はアイルランドから来た略奪者にさらわれた。同じように連れ去られた者は何千人もいたと彼は書く。それまでの自分は神を知らず、司祭たちの言うことも聞かなかったという。アイルランドで6年間、主人の家畜の番をさせられた。寒さと雨の中、一日に百回も祈るようになった、と彼は振り返る。

蛇を追い払う聖パトリック
蛇を追い払う聖パトリックWikimedia Commons Lyricmac at English Wikipedia · CC BY 2.5

ある夜、眠っている彼に声が聞こえた。お前の船の用意ができている。彼は逃げ出し、遠く離れた港まで歩いて、出航間際の船に乗り込んだ。三日の航海ののち、一行は人のいない土地を28日間さまよい、食べ物が尽きた。異教徒の船長に、お前の神に祈ってみろと言われて祈ると、豚の群れが現れて皆が飢えをしのいだ、と彼は書いている。

故郷に戻ってしばらくのち、彼はまた夢を見た。ウィクトリクスという男が、たくさんの手紙を持ってアイルランドから来た。その一通には「アイルランド人の声」とあり、読もうとすると、西の海に近い森のそばに住む人々の声が聞こえた。聖なる若者よ、どうかもう一度来て、私たちの間を歩いてくれ、と。彼は聖職者の道に入り、のちに司教として、かつて奴隷だった島へ戻った。

聖パトリックの鐘を収めた聖具箱
聖パトリックの鐘を収めた聖具箱Wikimedia Commons Elkington & Co. · CC0

アイルランドでの布教がどう進んだのかを、彼自身は具体的にはほとんど書かない。王たちの息子に贈り物をして同行してもらったこと、信徒たちが祭壇に投げた装身具を返したこと、洗礼を授けても礼の品を受け取らなかったこと、一度は捕らえられて十四日間鎖につながれたことが、断片的に語られる。『告白』を書いた理由の一つは、ブリタニアの教会の上役たちから責められていたことだった。若いときに友人に打ち明けた罪が、何十年も後に蒸し返され、布教で私腹を肥やしているという疑いもかけられたらしい。「無学」と繰り返すのは謙遜であると同時に、学のある聖職者たちへの反論でもある。

もう一つの文章、コロティクスの兵士たちへの手紙は激しい。ブリタニアの王で、キリスト教徒であるはずのコロティクスの兵が、パトリキウスが洗礼を授けたばかりの信徒を襲い、白い衣のまま殺し、残りを奴隷として売り払った。彼は兵士たちを破門し、略奪品を返し捕虜を解き放つよう求めた。かつて自分がさらわれた側だった人間の怒りである。

1909年の聖パトリックの日の絵葉書「エリン・ゴー・ブラー(永遠にアイルランド)」
1909年の聖パトリックの日の絵葉書「エリン・ゴー・ブラー(永遠にアイルランド)」Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ローマの年代記には、431年に教皇がパラディウスという司教を「キリストを信じるアイルランド人のもとへ」送ったという記録がある。パトリキウスが来る前から、島には少数の信徒がいたことになる。それでもアイルランドの教会は彼を最初の伝道者として記憶した。伝統的には432年に来たとされ(パトリキウスのアイルランド布教)、死んだのは461年とも493年とも伝わる。墓はダウンパトリックにあるとされるが、確かではない。

7世紀になると、アイルランドの修道士たちが彼の伝記を書いた。そこでは異教の祭司たちとの魔術比べや、王の前で起こした奇跡が加わった。アイルランドから蛇を追い払った話はさらに後の伝記に現れ、三つ葉のクローバーで三位一体を説いたという話は、ずっと後の時代になって記録されたものである。

説教する聖パトリック、ジャンヌ・ド・モンバストン画(14世紀)
説教する聖パトリック、ジャンヌ・ド・モンバストン画(14世紀)Wikimedia Commons Beloved female saints · CC0

彼の後、アイルランドは修道院の島になった。そこからコルンバがスコットランドのアイオナへ(コルンバのアイオナ修道院)、コルンバヌスが大陸へ渡り、ローマの秩序が崩れたヨーロッパに再び書物と信仰を運んでいった。命日とされる3月17日はアイルランドの祝日になり、いまでは移民の子孫が暮らす世界中の街で、人々が緑を身につけて祝う。その日に祝われている聖人は、蛇もクローバーも登場しない、自分は無学だと書き続けた元奴隷の文章を残している。

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