アーサー王
概要
6世紀のブリトン人の指導者、と言えばそこまで。ギルダスは名を書かず、ネンニウスは12の戦いを挙げ、ジェフリー・オブ・モンマスが12世紀に王にし、フランスの詩人が円卓と聖杯とランスロットを足し、マロリーが15世紀に一つにした。実在したかは分からない。物語は実在する。
関わったできごと(1)
バドン山の戦い(伝承)AD500年頃(伝承) · 指揮したと伝える本文
アーサー王は、5世紀の末から6世紀の初めにかけて、ブリテン島に渡ってきたサクソン人と戦ったと伝えられるブリトン人の指導者である。だが、その人が本当にいたのかどうかは分からない。確かなのは、同じ時代の記録にその名が一度も出てこないこと、そして数百年のあいだに、名前一つから巨大な物語が育っていったことである。

ローマ軍が5世紀の初めにブリテン島から引き揚げると、島の東と南には、海を越えてアングル人、サクソン人、ジュート人が移り住んできた(アングロ・サクソンのブリテン移住)。土地のブリトン人はこれと戦い、押し返した時期もあった。6世紀の半ばにブリトン人の修道士ギルダスが書いた『ブリタニアの破壊について』は、アンブロシウス・アウレリアヌスという指導者のもとでブリトン人が反撃し、バドン山の包囲戦(バドン山の戦い(伝承))で勝ったことを記している。ギルダスはこの戦いの年に自分が生まれたとも書く。だが、そこにアーサーの名は無い。
アーサーの名が出てくる最も古い文章とされるのは、ウェールズ語の詩『ゴドディン』である。北方のブリトン人の戦士たちが戦いに倒れたことを嘆く詩で、ある戦士の勇猛を称えて、彼はアーサーではなかったけれども、という意味の一句がある。アーサーがすでに武勇の手本として知られていたことになるが、詩の写本は13世紀のもので、この句が後から加えられた可能性も指摘されている。

アーサーに戦いの経歴を与えたのは、830年頃にウェールズで書かれた『ブリトン人の歴史』である。この書はネンニウスという人の作とされてきた。そこではアーサーは王ではなく、ブリトン人の王たちとともに戦った「戦いの指揮官」と呼ばれ、12の戦いで勝ったとされる。12番目がバドン山の戦いで、アーサーは一日のうちに一人で960人を倒したという。10世紀の『カンブリア年代記』は、516年の項にバドンの戦いを、537年の項にカムランの戦いを挙げ、カムランでアーサーとメドラウトが倒れたと記す。ウェールズの古い物語『キルフーフとオルウェン』では、アーサーはすでに名だたる戦士を従える王として現れ、のちの円卓の騎士のケイやベディヴィアの原型もそこにいる。
アーサーをブリテンの偉大な王に仕立てたのは、12世紀のジェフリー・オブ・モンマスである。1136年頃に書かれた『ブリタニア列王史』で、アーサーは父ウーサー・ペンドラゴンのあとを継ぎ、魔法使いマーリンの助けを受け、サクソン人を破り、さらにガリアに渡ってローマ皇帝の軍とまで戦う。留守のあいだに甥のモドレッドが王位と王妃グウィネヴィアを奪い、アーサーはカムランで彼を討つが、自らも深手を負ってアヴァロンの島へ運ばれる。この本は大当たりし、ヨーロッパ中で読まれた。史実として読むことはできないが、のちの物語の骨組みはここでほぼ出そろった。
そこへフランスの詩人たちが肉付けをした。1155年、ノルマン人の詩人ヴァースはジェフリーの本をフランス語の韻文に移し、騎士たちが上座を争わないよう作られた丸い卓、円卓を書き加えた。1170年代から80年代には、クレティアン・ド・トロワが、王妃と恋に落ちる騎士ランスロットや、不思議な城で聖杯を見る若者ペルスヴァルの物語を書いた。1200年頃、ロベール・ド・ボロンは聖杯を、キリストが最後の晩餐で用いた杯とした。13世紀の前半には、これらを一つにつなぐ長大な散文の物語群が作られ、アーサーの宮廷は騎士道と恋愛と信仰の物語の舞台になった。
15世紀、イングランドの騎士トマス・マロリーは、それらを英語の散文で一つにまとめ直した。マロリーは暴行や強盗の罪でたびたび獄中にあり、作品の多くもそこで書かれたと考えられている。彼の死後の1485年、印刷業者ウィリアム・キャクストンがこれを『アーサー王の死』として出版した。英語で読まれるアーサー王の物語の多くは、この本に源をもつ。

物語が育つと、それを裏づける「遺物」も現れた。1191年、イングランド南西部のグラストンベリー修道院の修道士たちは、墓地の地中からアーサーと王妃の墓を見つけたと発表し、ここにアーサー王がアヴァロンの島に眠る、と刻まれた鉛の十字架を示した。修道院は数年前に大火に見舞われ、再建の資金を必要としていた。いまではこの発見は修道院の作り事だったと見る研究者が多い。アーサーが生まれたとされるコーンウォールのティンタジェルや、キャメロットに擬されるサマセットのキャドベリーの丘からは、たしかに5世紀から6世紀の有力者の拠点の跡が見つかっている。だがアーサーその人を示すものは出ていない。
アーサーの正体については、さまざまな説が出された。2世紀にブリタニアで部隊を率いたローマの軍人ルキウス・アルトリウス・カストゥスの名が伝わったものだという説、ギルダスの書いたアンブロシウス自身だという説、名を残さなかった別の指揮官だという説、そしてもともと伝説の英雄で、実在の人ではなかったという説である。どれも決め手はなく、多くの歴史家は、実在したともしなかったとも言えないという立場をとっている。

それでも物語は、時代ごとに読み直され続けた。テューダー朝を開いたヘンリー7世は、ウェールズの血筋を誇ってアーサーの後継者を名乗り、長男にアーサーと名づけた。だがこのアーサー王子は1502年に15歳で死に、王位は弟のヘンリー8世に回った。19世紀にはテニスンが『国王牧歌』でヴィクトリア朝の理想の騎士像を描き、20世紀にはT・H・ホワイトの小説、ミュージカル、映画が続いた。サクソン人と戦ったとされるブリトン人の英雄が、皮肉にも、そのサクソン人の子孫が築いたイングランドの国民的な物語の主人公になったのである。