人物

バシレイオス(カイサリアの)

Basil of Caesarea
AD330年頃 – AD379年1月1日(享年49・推定)
ローマ帝国重要度 4

概要

カッパドキアの富裕な家に生まれ、アテナイでナジアンゾスのグレゴリオスと学び、財産を貧者に分け、修道の規則を書き、司教になった。飢饉の年に炊き出しをし、病院と孤児院と貧民の街「バシレイアス」を建てた。皇帝の脅しに「私は炎と剣しか恐れない」。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

カッパドキア教父AD370年頃 · 司教

本文

カイサリアのバシレイオスは、4世紀の小アジアで、修道生活の規則を定め、貧しい人々のための施設を築き、三位一体をめぐる論争でニカイアの信仰を守った司教である。後世「大バシレイオス」と呼ばれる。名はギリシア語で「王の」を意味する。330年頃、小アジアの中部カッパドキアの、信仰の篤い裕福な家に生まれた。

ハギア・ソフィアのキリスト・パントクラトルのモザイク
ハギア・ソフィアのキリスト・パントクラトルのモザイクWikimedia Commons Dianelos Georgoudis · Public domain

一家はキリスト教の聖人の家系として知られる。祖母マクリナは、迫害の時代を生きた信者で、3世紀の聖人「奇跡者」グレゴリオスの教えを受け継いでいた。父は修辞学の教師で、母エメリアは殉教者の娘だったと伝えられる。十人ほどの兄弟姉妹のうち、弟のニュッサのグレゴリオスとセバステのペトロスはともに司教になり、姉のマクリナは婚約者を亡くしたのち生涯を祈りに捧げて聖女とされた。

バシレイオスはカイサリア、コンスタンティノープルで学んだのち、当時の学問の都アテナイに留学した。そこで同郷のナジアンゾスのグレゴリオスと出会い、生涯の友となる。のちにグレゴリオスは、二人はアテナイで教会と学校への二つの道しか知らなかったと回想している。同じころアテナイには、のちに異教の復興を図る皇族の若者ユリアヌスも学んでいた。

フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』
フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』Wikimedia Commons Philippe de Champaigne · Public domain

356年頃、故郷に戻ったバシレイオスは修辞学の教師として名を上げた。だがのちに彼は、そのころの自分は若さの虚栄の中にいて、空しい知恵を学ぶことに時を費やしていたと振り返っている。家ではすでに姉マクリナが母とともに祈りの生活を始めていた。ニュッサのグレゴリオスは、学識を鼻にかける兄を姉が引き戻したと書いている。バシレイオスは洗礼を受け、エジプト、パレスティナ、シリア、メソポタミアを旅して修道士たちの暮らしを見て回った(砂漠の修道制の始まり)。

帰国した彼は、黒海に近いポントスの山あいの川辺に引きこもり、ナジアンゾスのグレゴリオスを手紙で誘った。山と森と川があり、鳥が歌うこの地へ来ないか、という手紙である。来てはみたものの、グレゴリオスは寒さと粗末な食事に音を上げてすぐに帰り、冗談まじりの返事を書いた。それでも二人はしばらくともに暮らし、3世紀の神学者オリゲネスの著作から選んだ抜粋集を編んだとされる。

この隠遁の時期から、バシレイオスは修道生活の規則を書き始めた。砂漠の隠者のような一人きりの苦行ではなく、共同で暮らし、祈りと労働を組み合わせ、財産を共有し、互いに仕えることを重んじた。孤独のうちに暮らす者は誰の足を洗うのか、という問いが彼の考えをよく表している。修道院は子供の教育や病人の世話も担うべきだとされた。東方の正教会の修道生活は、いまもこの規則を土台にしており、西方のベネディクトの戒律にも影響を与えたとされる。

ベネディクトの戒律に関わる図版:MS. Hatton 48 fol. 6v-7r
ベネディクトの戒律Wikimedia Commons Public domain

やがてバシレイオスはカイサリアの教会に呼ばれ、司祭になった。368年頃、カッパドキアを干ばつと飢饉が襲った。彼は説教の中で、穀物を蔵にため込んで値上がりを待つ富者を厳しく責めた。あなたが手元に置いているパンは飢えた者のものであり、しまい込んだ衣は裸の者のものだ、と。そして自分の財産を売り、炊き出しを開いて、奴隷にも自由人にも、キリスト教徒にもユダヤ教徒にも異教徒にも、分け隔てなく食べ物を配った。

370年、バシレイオスはカイサリアの司教に選ばれた。反対も多く、ナジアンゾスのグレゴリオスの老いた父は、病の身を押して運ばれてきて票を投じたという。当時の皇帝ウァレンスは、キリストを父なる神より下に置くアレイオス派に近い考えを持ち、ニカイア公会議(ニケーア公会議)の信仰を守る司教たちに圧力をかけていた。372年頃、皇帝の長官モデストゥスがバシレイオスを呼び出し、財産の没収、追放、拷問、死をちらつかせて従わせようとした。バシレイオスは、取られる財産は無く、どこへ追われてもそこは神の地であり、死はむしろ神のもとへ早く行けることだと答えた。長官が、これほど大胆に私に話した者はいないと言うと、それはあなたがまだ本物の司教に会ったことがないからだと返した、とナジアンゾスのグレゴリオスは伝えている。

ニケーア公会議に関わる図版:Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741
ニケーア公会議Wikimedia Commons C messier · Public domain

司教となったバシレイオスは、カイサリアの町の外に、病人や旅人や貧しい人々を迎える施設の一群を建てた。病院、宿泊所、救貧所、働く場を備えたその場所は、彼の名を取って「バシレイアス」と呼ばれ、新しい町のようだったという。ハンセン病の患者に自ら口づけしてためらわなかった、とグレゴリオスは弔辞で語った。キリスト教が病院という制度を作り出していく、その早い例の一つである。

一方で、彼の強い意志は友情を傷つけもした。皇帝がカッパドキアの州を二つに分け、彼の管轄が削られると、バシレイオスは自分の側に新しい司教座を作り、その一つ、宿場町のサシマにナジアンゾスのグレゴリオスを任じた。小さく騒がしい町へ送られたグレゴリオスは任地に赴かず、友に利用されたという思いを長く抱いた。

トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)
トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)Wikimedia Commons Carlo Crivelli · Public domain

バシレイオスは神学でも大きな仕事を残した。『聖霊について』では、聖霊が父と子と同じ栄光を受けるべきことを論じた。ただし聖霊をはっきり「神」と呼ぶことは、論争の激しさを考えて控えている。この主張は、彼の死後、381年のコンスタンティノープル公会議で信条に聖霊の条項が加えられる流れにつながった(カッパドキア教父)。天地創造の六日間を語った説教集『ヘクサエメロン』は、自然界の生き物を生き生きと描き、ミラノのアンブロシウスがラテン語で翻案した。若者に向けて、異教のギリシアの文学からも蜜蜂が花から蜜だけを集めるように善いものを学べと説いた小品は、ルネサンス期に人文主義者に好んで読まれ、古典を学ぶことの弁護として使われた。

長年の厳しい節制で体を損ねていたバシレイオスは、379年1月1日に死んだとされる(前年の秋とする説もある)。50歳に届かなかった。ギリシア正教の世界では、彼の祝日が元日に当たることから、新年にはバシレイオスの名を冠した「ヴァシロピタ」というパンに硬貨を入れて焼き、切り分けて一年の幸運を占う。ギリシアの子供たちに贈り物を届けるのは、この聖バシレイオスである。

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