ノートルダム大聖堂の火災
概要
850年の屋根の木組みが燃え、尖塔が倒れた。世界が中継で見た。荊の冠は消防士が持ち出した。翌日に10億ユーロの寄付が集まり、五年後に再開した。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
パリのシテ島に立つノートルダム大聖堂は、1163年ごろに建設が始まり、およそ二百年をかけて形を整えたゴシックの大聖堂である(ゴシックの始まりはサン・ドニ修道院とゴシックの始まり)。王の戴冠や戦勝の祝い、国葬が行われ、ナポレオンもここで皇帝として冠をかぶった。フランス革命の時代には彫像が壊され、建物は荒れたが、1831年にヴィクトル・ユゴーが小説『ノートルダム・ド・パリ』を書いて人々の関心を呼び戻し、19世紀の半ばに建築家ヴィオレ=ル=デュクが大がかりな修復を行った。このとき、交差部の上に高さ90メートルを超える鉛張りの尖塔が新しく建てられた。
屋根の下には、12世紀から13世紀に切り出された樫の木で組んだ巨大な小屋組みがあった。使われた木はおよそ1300本と見積もられ、その密な木組みは「森」と呼ばれていた。その上を鉛の板が覆っていた。2019年の春、大聖堂は尖塔の修復工事のさなかで、周りには足場が組まれていた。

2019年4月15日、復活祭の前の聖週間の月曜日。夕方6時18分ごろ、火災の警報が鳴った。警備の職員が確かめに向かったが、示された場所を取り違え、火元を見つけられなかった。6時40分過ぎに二度目の警報が鳴り、ようやく屋根裏から煙が上がっているのが分かった。そのときには、乾ききった八百年前の木組みに火が回り始めていた。
炎は屋根全体に広がり、溶けた鉛が流れ落ちた。7時50分ごろ、ヴィオレ=ル=デュクの尖塔が炎に包まれて崩れ落ちた。その瞬間は世界中にテレビとインターネットで中継された。セーヌ川の岸には大勢の人が集まり、燃える大聖堂を見つめながら賛美歌を歌う人々もいた。
消防士たちは数百人の態勢で火と戦った。最も恐れられたのは、火が北側の鐘楼に燃え移ることだった。鐘楼の木組みが燃えて大きな鐘が落ちれば、塔そのものが崩れ、建物全体が倒れかねない。消防士の一隊が危険を冒して塔の中へ入り、夜遅くまで火を食い止めた。あと少し遅ければ塔は失われていた、と当局は述べている。放水には遠隔操作のロボットも使われた。深夜、構造は救われたという発表が出された。
建物の中の宝物も運び出された。なかでも大切にされていたのが「茨の冠」とされる聖遺物である。キリストが十字架にかけられる前にかぶせられたと伝えられるもので、13世紀にフランス王ルイ9世がコンスタンティノープルのラテン人の皇帝から手に入れ、そのために宮殿の礼拝堂サント・シャペルを建てた。消防隊付きの司祭を含む人々が人の鎖を作って、冠や聖ルイの衣と伝えられる品などを外へ運び出した。
翌日から、寄付の申し出が相次いだ。フランスの大企業の経営者たちが一億、二億ユーロ単位の寄付を表明し、数日のうちに申し出の総額は10億ユーロ近くに達した。最終的に、世界の30万人を超える人々や団体から、8億ユーロを超える寄付が集まった。ただ、そのころフランスでは燃料税の引き上げに反対する「黄色いベスト」の抗議が続いており、困窮する人々には出さない金が大聖堂には一夜で集まる、と反発する声も上がった。
マクロン大統領は、5年で再建すると約束した。尖塔を現代的な意匠で建て直す案も一時は取りざたされ、ガラスの尖塔や屋上の庭園といった提案が話題になった。しかし議会や専門家からは元の姿に戻すべきだという声が強く、2020年、19世紀の尖塔をそのまま再現することが決まった。屋根の木組みも、フランス各地の森から選んだ樫を使い、中世と同じように斧で削って組み直された。屋根も再び鉛で葺かれた。火災で飛び散った鉛による汚染は周辺の学校や住民を不安にさせ、除染の作業が行われた。
2024年12月7日、大聖堂は5年8か月ぶりに再開された。式典には各国の首脳が集まり、煤と鉛の粉を一本ずつ落とした大オルガンの8000本のパイプが再び鳴り響いた。火災の原因はいまも特定されていない。捜査は放火の形跡は無いとし、電気系統の不具合か、作業員の煙草の火の不始末などの事故の可能性を挙げている。
火災は、世界中の古い木造の屋根を抱える建物に、防火のあり方を問い直させた。中世の大聖堂の屋根裏は、人の目の届かない、燃えやすい森だった。大聖堂は救われたが、失われた「森」の八百年の木は戻らない。