人物

メトディオス

Methodius
AD815年 – AD885年4月6日(享年70・推定)
ビザンツ帝国重要度 4

概要

テッサロニキの官吏の子。弟キュリロスと大モラヴィアへ。スラヴ語の典礼。ドイツの司教に3年幽閉された。教皇が救い、モラヴィアの大司教に。聖書をスラヴ語に訳し終えて死んだ。弟子はブルガリアへ追われ、そこでキリル文字を作った。

関わったできごと(1)

大モラヴィア国AD833年 · 大司教

本文

メトディオスは、弟のキュリロスとともにスラヴ人に文字と自分たちの言葉の典礼をもたらしたビザンツの聖職者である。815年頃、エーゲ海の北岸の港町テッサロニキに生まれた。父レオンは軍の中級の指揮官だった。テッサロニキの周りには多くのスラヴ人が住みついており、兄弟は幼いころからスラヴ語に親しんでいたと考えられている。生涯を伝えるのは、彼の死後まもなく弟子が古い教会スラヴ語で書いた伝記である。

兄のメトディオスは、まず役人の道を歩み、スラヴ人の住む地方の長官を十年ほど務めた。その後、世の騒がしさを嫌って、小アジアのビテュニアにあるオリュンポス山の修道院に入った。俗名はミカエルで、メトディオスは修道士としての名だとされる。十歳あまり年下の弟コンスタンティノス、のちのキュリロス(キュリロス)は、都で学問を積み「哲学者」と呼ばれる学者になっていた。860年頃、兄弟は皇帝の使節として北のハザールの宮廷に赴き、そこでユダヤ教徒やムスリムと信仰の論争をしたと伝えられる。

862年、中欧の大モラヴィア(大モラヴィア国)の君主ラスチスラフが、ビザンツ皇帝ミカエル3世に使者を送った。私たちの民は異教を捨てたが、自分たちの言葉で正しい信仰を教えてくれる教師がいない、というのである。大モラヴィアには東フランクから来た聖職者たちがラテン語で布教しており、ラスチスラフはその影響から離れたいと考えていた。皇帝は、スラヴ語のできるテッサロニキの兄弟を送ることにした。

大モラヴィア国に関わる図版:Great moravia svatopluk datailed
大モラヴィア国Wikimedia Commons Great_moravia_svatopluk.png : Tankred derivative work: Millenium187 ( talk ) · Public domain

出発の前に、コンスタンティノスはスラヴ語の音を書き表すための新しい文字を作った。いまグラゴル文字と呼ばれる文字である。兄弟は福音書や典礼の書物をスラヴ語に訳し、863年頃モラヴィアに着くと、若者に文字を教え、スラヴ語で礼拝を行った。ところが、東フランクの聖職者たちはこれに強く反発した。神をたたえてよい言葉は、十字架の上の罪状書きに書かれたヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の三つだけだ、と彼らは主張した。

867年、兄弟は弟子を連れてローマに向かった。教皇ハドリアヌス2世は二人を迎え、持参したスラヴ語の典礼書を認めて、ローマの教会でスラヴ語のミサを行わせた。だがコンスタンティノスはローマで病に倒れ、869年2月、死の床で修道士となってキュリロスの名を受けた。42歳だった。伝記によれば、彼は兄に、私たちは一つの畝を耕す二頭の牛だった、私は畝の途中で倒れるが、兄さんは山の修道院へ戻ろうとせず、この仕事を続けてほしい、と頼んだという。

メトディオスは弟の願いを受けた。教皇は彼をパンノニアとモラヴィアの大司教に任じ、古代の司教座シルミウムの名を与えた。だがこの地方を自分たちの管轄と考えるバイエルンの司教たちは、黙っていなかった。870年、彼らはメトディオスを捕え、勝手に裁いて、ドイツ南部の修道院に閉じ込めた。幽閉は二年半ほど続いた。教皇はしばらくこのことを知らされず、873年、事情を知ったヨハネス8世が強く抗議して、ようやく彼は解き放たれた。

モラヴィアに戻ったメトディオスを待っていたのも、困難だった。君主はラスチスラフを追ったスヴァトプルクに代わっており、この人はラテン語の典礼を好むフランク系の聖職者に肩入れしていた。教皇もいったんはスラヴ語の典礼を禁じ、説教だけを許した。880年、メトディオスはローマに呼ばれて自分の正しさを説明し、ヨハネス8世はあらためてスラヴ語の典礼を認める書簡を出した。だが、教皇が同時にモラヴィアに送ったフランク系の司教ヴィヒングは、メトディオスに逆らい続けた。

晩年のメトディオスは、聖書の大部分をスラヴ語に訳す仕事を成し遂げた。伝記は、彼が二人の速記の弟子とともに、わずか半年ほどでマカバイ記を除く旧約の書を訳し終えたと書いている。教会の法の書や教父の説教の翻訳も手がけたとされる。885年4月6日、メトディオスは死んだ。後継者には、モラヴィア生まれの弟子ゴラズドを指名していた。葬られた場所は大モラヴィアの都のどこかとされるが、墓はいまも見つかっていない。

彼の死後、弟子たちの運命は暗転した。新しい教皇ステファヌス5世はスラヴ語の典礼を禁じ、ヴィヒングとスヴァトプルクは弟子たちを捕え、国外へ追った。一部は奴隷として売られ、ヴェネツィアでビザンツの役人に買い戻されたと伝えられる。クリメント、ナウム、アンゲラリオスらはドナウを越えてブルガリアに逃れ、キリスト教を受け入れたばかりの君主ボリス1世に迎えられた(ブルガリアの改宗)。

ブルガリアの改宗に関わる図版:Baptism of the Preslav Court
ブルガリアの改宗Wikimedia Commons Nikolai Pavlovich (1835-1894) · Public domain

ブルガリアで、メトディオスの弟子たちの仕事は大きく花開いた。西のオフリドではクリメントが数千人の弟子を育て、都のプレスラフでも書物が次々に訳された。そのプレスラフで、ギリシア文字をもとに、グラゴル文字より書きやすい新しい文字が作られた。この文字は師の弟の名を取ってキリル文字と呼ばれるようになるが、実際の作り手は分かっていない。大モラヴィアは10世紀の初めにマジャール人の侵入で崩れ、西スラヴのチェコやポーランドはラテン語の教会に入った。一方で、ブルガリアからセルビアへ、そしてキエフ・ルーシの改宗へと、スラヴ語の典礼とキリル文字が広がった。ロシア語、ウクライナ語、ブルガリア語、セルビア語を書くいまの文字は、この流れの先にある。

兄弟はのちに東西両方の教会で聖人とされた。ブルガリアでは二人の祝日の5月24日が、スラヴの文字と文化の日として祝われている。1980年、教皇ヨハネ・パウロ2世は、ヌルシアのベネディクトゥスと並ぶヨーロッパの守護聖人に兄弟を加えた。文字を作ったのは弟だったが、その文字で書かれた教会を、牢に耐えて守り抜いたのは兄だった。

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