テルトゥリアヌス『護教論』
概要
カルタゴの法律家が、ラテン語でキリスト教を弁護した。「殉教者の血は種である」の言葉はここから。三位一体という語を最初に使った人でもある。晩年は正統の教会から離れた。
場所
36.85°N 10.32°E · チュニジア・チュニス県
関わった人(1)
テルトゥリアヌスAD155年頃–AD220年頃 · 著者本文
2世紀の終わり、キリスト教はローマ帝国の中で、まだ認められていない宗教だった。帝国全体に及ぶ組織的な迫害はなかったが、キリスト教徒であると訴えられれば、各地の総督の裁量で処刑されることがあった。百年近く前、トラヤヌス帝が属州総督の小プリニウスに与えた指示が基準になっていた。キリスト教徒をこちらから探し出す必要はない。だが訴えられて、認めて、神々に祈ることを拒むなら罰せよ。町で疫病や飢饉が起きると、群衆はキリスト教徒のせいだと騒いだ。
北アフリカの大都市カルタゴに、テルトゥリアヌスという人がいた。生まれは155年ごろとされ、異教徒の家に育ち、弁論と法律の素養を身につけた。のちの伝えではローマ軍の百人隊長の子で、ローマで法律家として働いたというが、確かなことは分かっていない。中年になってキリスト教に改宗し、その後は筆の力を信仰のために使った。

197年ごろに書かれた『護教論』は、ローマ帝国の属州の総督たちに宛てた弁論の形をとる。皇帝は、北アフリカ出身のセプティミウス・セウェルスだった。テルトゥリアヌスはまず、裁判のやり方を突いた。ほかの罪人なら、何をしたかを調べ、証拠を求め、弁明を聞く。ところがキリスト教徒だけは、名前を認めれば罰せられ、否定すれば許される。罪を罰しているのではなく、名前を罰しているのだ。トラヤヌスの指示についても、罪があるなら探し出すべきで、罪がないなら罰するべきではない、探すなと言いながら罰せよと言うのは自分で自分を否定している、と皮肉った。
キリスト教徒をめぐる噂にも一つ一つ答えた。秘密の集会で幼児を殺して食べ、明かりを消して乱交にふける、というのはでたらめである。キリスト教徒は皇帝のために祈る。ただ、皇帝を神とは呼ばない。皇帝は神ではなく、神に立てられた人だから。集会では貧しい者や孤児、年老いた者のために金を集める。それを見た異教徒は「見よ、彼らがどれほど互いに愛し合っているか」と言う、とも書いた。

人々の怒りの的になっていることも、皮肉を込めて書いている。ティベル川があふれて城壁まで来ても、ナイル川があふれなくても、空が動かず大地が揺れても、飢饉や疫病が来ても、すぐに「キリスト教徒をライオンに」と叫ぶ声が上がる。そして、帝国の至るところにすでに信徒がいることを誇った。われわれは昨日現れたばかりの者だが、すでにあなた方の町も島も砦も、陣営も宮殿も元老院も広場も、すべてを満たしている。あなた方に残したのは神殿だけだ、と。
最後に、テルトゥリアヌスは迫害する者たちに向けて書いた。あなた方がわれわれを刈り取るたびに、われわれは増える。キリスト教徒の血は種である。この言葉はのちに「殉教者の血は教会の種である」という形で広く知られるようになる。実際、数年後の203年には、カルタゴの円形闘技場で、若い貴婦人ペルペトゥアと奴隷女フェリキタスらが野獣の前に引き出されて殉教した。その記録は、テルトゥリアヌスの周辺で書き整えられたとみる研究者もいる。
テルトゥリアヌスは、ラテン語で本格的にキリスト教の神学を書いた最初の人である。それまでの教会の著作は、ほとんどがギリシア語だった。のちの著作で、父と子と聖霊の関係を表すために、「三位一体」(トリニタス)というラテン語を初めて用い、「位格」(ペルソナ)という言葉にも神学の意味を与えた。「アテナイとエルサレムに何の関わりがあるか」と書いて、哲学から信仰を引き出そうとする人々を退けた。よく引かれる「不合理ゆえに我信ず」は本人の言葉ではないが、神の子が死んだことは不合理だからこそ信じるに値する、という趣旨の一節は実際にある。
厳しさは、やがて教会そのものに向かった。テルトゥリアヌスは、新しい預言を説き、厳格な断食と禁欲を求めるモンタノス派に共鳴していく。配偶者を亡くした信徒の再婚を認め、迫害から逃げることを許し、重い罪を犯した者を赦す教会は甘すぎる、と非難した。そのため、ラテン教会の父と呼ばれるほどの影響を残しながら、聖人には数えられていない。死んだのは220年ごろとされるが、はっきりしない。

半世紀後、デキウスの迫害で帝国は初めて全土の住民に神々への犠牲を命じ、さらにその半世紀後にはディオクレティアヌスの大迫害が来る。それでも信徒は増え続け、4世紀の終わりにキリスト教は帝国の国教となった(キリスト教の国教化)。同じ北アフリカから出たアウグスティヌスをはじめ、ラテン語で考える神学者たちは、テルトゥリアヌスが作った言葉で書き続けた。