ティリダテス3世
概要
父がペルシアの手で殺され、ローマで育ち、ローマの兵で王位に戻った。父を殺した男の息子グレゴリオスを13年穴に入れ、狂気にかかり、その男に癒されて洗礼を受けた。伝説では猪に変えられた。アルメニアの最初のキリスト教徒の王。
関わったできごと(1)
アルメニアのキリスト教国教化AD301年(伝承) · 王本文
アルメニア語ではトルダトと呼ばれる。アルメニアの王家はアルサケス家で、イランを治めたパルティアの王家の分家だった。224年、パルティアの王家がササン朝の初代アルダシールに倒されると、アルメニアのアルサケス家はササン朝を一族の仇とし、ローマと結んで抵抗した。ティリダテスの生涯は、このペルシアとローマのあいだで揺れる小国の運命そのものである。
生涯の多くは、5世紀に編まれたアガタンゲロスの『アルメニア人の歴史』によって伝わる。聖人伝としての性格が強く、どこまでが史実かは慎重に読む必要がある。それによれば、父ホスロフ2世は、ササン朝の王に買収されたパルティア系の貴族アナクに、友を装って近づかれ、殺された。アナクは一族ごと討たれたが、幼い息子だけが乳母に抱かれてカッパドキアのカイサリアへ逃れた。この子がのちのグレゴリオスである。王子ティリダテスもまた、ローマへ逃がされて育った。アルメニアは長くササン朝の支配下に置かれた。
ローマで育ったティリダテスは武勇で知られたと伝わる。オリンピアの競技で勝った、ゴート人の王と一騎打ちをした、といった話がアガタンゲロスにあるが、伝説の域を出ない。確かなのは、ローマが彼を、ペルシアに対抗するための手駒として育てたことである。287年頃、ディオクレティアヌスの後ろ盾で王位に戻った。ただし、即位の年や、ペルシアの反撃でいったん追われたかどうかについては研究者の見方が分かれる。297年から298年、ローマの副帝ガレリウスがササン朝のナルセを破り、ニシビスの和約でアルメニアはローマの勢力圏に入った。ティリダテスの王位はここで固まった。
王の側近にはグレゴリオスがいた。父の仇の息子だとは知らずに仕えさせていたとされる。キリスト教徒として育ったグレゴリオスは、女神アナヒトの祭りで花輪を捧げることを拒み、さらに素性が明かされた。王は彼を12の拷問にかけ、首都アルタシャトの深い穴に投げ込んだ。伝承では13年、あるいは15年、穴の底で生き延びたという。いまアララト山を望むホル・ヴィラップの修道院が、その穴の跡とされている。
伝承は続く。ローマの迫害を逃れた処女たちの一団がアルメニアへ来た。その一人リプシメの美しさを聞いた王は妻にしようとしたが拒まれ、彼女と仲間の女たち、指導者ガヤネを殺させた。数は37人とも伝わる。すると王は狂気にかかり、猪のような姿になって野をさまよった。王の妹ホスロヴィドゥフトが、穴の男だけが王を癒せるという夢を見た。引き上げられたグレゴリオスは骨と皮だったが、王を癒した。アルメニアの教会のイコンには、豚の頭をした王がグレゴリオスの前に跪く姿が描かれる。
伝承の年では301年、ティリダテスは洗礼を受け、キリスト教を国の宗教にした(アルメニアのキリスト教国教化)。王みずから兵を率いて、アナヒト、ヴァハグン、アラマズドといった古い神々の神殿を壊したと伝わる。かつて自分が花輪を捧げた神々である。啓蒙者グレゴリオスはカイサリアで司教に叙され、エチミアジンに大聖堂が建てられた。ローマ帝国がディオクレティアヌスの大迫害を経て、コンスタンティヌス1世のもとでキリスト教を公認する313年より早い。アルメニアが「世界で最初のキリスト教国」を名乗る根拠はここにある。もっとも、年代を照らし合わせて改宗を314年頃とみる研究者も多く、301年はあくまで教会の伝える年である。

改宗は信仰の問題であると同時に、政治の選択でもあった。ゾロアスター教を掲げるササン朝から距離を置き、アルメニアを宗教のうえでも別の国にする意味があった。グレゴリオスの子アリスタケスは、325年のニケーア公会議に出席したと伝えられる。王がコンスタンティヌスを訪ね、最初の二人のキリスト教徒の王が会見したという話も伝わるが、これは後世の創作とみられている。
晩年については、5世紀以後の史書が、改宗に不満を持つ貴族に毒を盛られて330年頃に死んだと伝えるだけで、確かなことは分からない。アルメニア教会は彼を聖人とし、グレゴリオス、リプシメとともに祀る。エチミアジンには7世紀に建てられた聖リプシメ教会と聖ガヤネ教会が今も立ち、世界遺産になっている。王が建てた国教は、その後アルメニアが国を失った長い時代にも、民族のよりどころとして残った。