エザナ王
概要
アクスムをキリスト教国にした。ローマとほぼ同時期の改宗で、エチオピア教会はいまも続く。
所属
アクスム王国関わったできごと(1)
アクスムのキリスト教化AD330年頃 · 当人本文
エザナは4世紀の中ごろ、エチオピア北部の高原に栄えたアクスム王国の王だった。生年は分からず、在位も320年代から360年ごろと幅をもってしか言えない。アクスムは紅海の港アドゥリスを通じて、ローマ帝国、アラビア、インドと結ばれた交易の国で(アクスムの紅海交易)、象牙や香料を輸出し、自前の金貨・銀貨・銅貨を発行していた。3世紀のマニ教の開祖マニは、アクスムを、ローマ、ペルシア、中国と並ぶ世界の四大国の一つに数えたと伝わる。
エザナの子ども時代を伝えるのは、4世紀末のローマの教会史家ルフィヌスである。それによれば、ティルス(いまのレバノン)の哲学者が二人の少年を連れてインドへ向かう途中、紅海の岸に船を寄せたところ、土地の者に襲われ、少年たちを除く全員が殺された。少年の名はフルメンティウスとアエデシウス。二人はアクスムの王のもとへ連れて行かれ、王に気に入られて、それぞれ書記と酌取りになった。王が死ぬと、王妃は幼い王子が成長するまで国を助けてほしいと二人に頼んだ。この王子がエザナだと考えられている。
フルメンティウスは、アクスムに来ていたローマの商人のうちキリスト教徒を集め、祈りの場を作った。王子が成人すると、アエデシウスは故郷へ帰り、フルメンティウスはエジプトのアレクサンドリアへ向かった。司教アタナシオスに、アクスムに司教を送ってほしいと願うと、アタナシオスは、あなた以上にふさわしい者がいるだろうか、と言って、フルメンティウス自身を司教に任じた。アクスムに戻ったフルメンティウスは、王を改宗させたとされる(アクスムのキリスト教化)。エチオピアでは彼を「アッバ・サラマ」(平和の父)と呼んで敬う。
この話には、外からの裏づけがある。356年ごろ、ローマ皇帝コンスタンティウス2世が、アクスムの王「アイザナスとサイザナス」に宛てて書いた手紙が、アタナシオスの著作に引かれている。アタナシオスと対立していた皇帝は、フルメンティウスをアレクサンドリアに送り返し、自分の推す司教のもとで調べ直させよ、と求めていた。アクスムの王がそれに応じた形跡は無い。
改宗の跡は、貨幣にはっきり残る。治世の前半に作られた硬貨には、南アラビア伝来の神のしるしである三日月と円盤が刻まれている。後半の硬貨では、それが十字架に替わる。十字架を刻んだ貨幣としては、世界でも最も早いものの一つである。改宗の年代を貨幣から追える例は珍しい。
王は碑文も多く残した。同じ内容を、エチオピアの文字であるゲエズ文字、南アラビアの文字、ギリシア文字で並べて刻んだものがある。前半の碑文では、王は戦いの神マフレムの子と名乗り、勝利をこの神に帰している。後半の碑文では、それが「天の主」「地の主」への感謝に変わり、ギリシア語の碑文には父と子と聖霊の名が現れる。アクスムの町には、いまもエザナの碑文を刻んだ石が立っている。
碑文の多くは戦いの記録である。エザナは自らを、アクスム、ヒムヤル、サバア、ベジャ、カスなどの王と名乗った。その中にはアラビア半島南部の名もあるが、実際にどこまで支配していたかは分からない。最も詳しいのは、西のノバ(ヌビア)と呼ばれる人々への遠征で、ナイル川とアトバラ川の合流点のあたりまで進み、町を焼き、捕虜と家畜を連れ帰ったと記す。かつてナイル中流に栄えたクシュの王国は、都の名を取ってメロエとも呼ばれたが(クシュのメロエ遷都)、このころにはすでに衰えていた。エザナの遠征が、その最後のとどめを刺したと見る説もある。
エザナの死の年も、死に方も分からない。エチオピアの伝承では、キリスト教を受け入れたのは「アブレハとアツベハ」という双子の王とされ、エザナはアブレハと同じ人物だとみなされている。
コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認したのは313年、アクスムの改宗はそれから一世代ほどのちで、ほぼ同じ時代になる。ただし王が改宗しても、民の多くがキリスト教徒になるまでには長い時間がかかった。5世紀末に、シリアなどから来た「九聖人」と呼ばれる修道士たちが、各地に修道院を建てて広めたと伝えられる。エチオピアの教会は、その後もアレクサンドリアの教会から代々司教を迎え続け、独立した総主教を持つのは20世紀の半ばである。以来1600年以上、のちのエチオピア・ソロモン朝の成立の時代を経て、エチオピア正教会はいまもこの国の人々の暮らしの中心にある。