できごと

出エジプト(伝承)

The Exodus
BC1250年頃(伝承)
年に諸説あり重要度 5
出エジプト(伝承)に関わる図版:London, British Library Ms Papyrus 2053 - POxy1075 (Papyrus 18) recto Exodus 40, 26–38
London, British Library Ms Papyrus 2053 - POxy1075 (Papyrus 18) recto Exodus 40, 26–38 Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

モーセに率いられたヘブライ人がエジプトを出て、海を渡り、シナイで律法を受けた。考古学の証拠はなく、いつ、どれだけの人が、そもそも起きたか、分からない。だが三つの宗教が、これを自分たちの始まりの物語にした。

場所

シナイ山
28.54°N 33.98°E · エジプト・シナイ半島

関わった人(1)

モーセ率いた

本文

ヘブライ語聖書(旧約聖書)の第二の書『出エジプト記』は、一つの民がどのようにして奴隷の境遇から逃れ、神と契約を結んだかを語る。物語はこう始まる。族長ヤコブの子ヨセフの時代に、飢饉を逃れてエジプトへ下ったイスラエルの一族は、そこで数を増やした。やがて「ヨセフのことを知らない新しい王」が立ち、増えすぎた彼らを恐れて奴隷にし、ピトムとラメセスという倉庫の町を建てさせた。それでも数が減らないので、王は生まれた男の子をナイル川に投げ込めと命じた。ある母親は赤子を防水した籠に入れて川辺の葦の間に置き、水浴びに来た王の娘がそれを拾った。王女は子に、水から引き出したという意味でモーセと名づけたと書かれている。実際には、この名はエジプト語で「子」を意味する語から来たとする説が有力である。

宮廷で育ったモーセは、同胞を打っていたエジプト人を殺してしまい、東の荒野のミディアンへ逃れて羊飼いになった。そこで燃えているのに燃え尽きない柴の中から神に呼びかけられ、民をエジプトから導き出せと命じられる。名を尋ねるモーセに、神は「わたしはある、わたしはあるという者だ」と答えた。モーセはエジプトに戻り、王に民を去らせるよう求めた。王は拒み、エジプトには十の災いが下る。ナイルの水が血に変わり、蛙、ぶよ、虻が国を覆い、家畜が疫病で死に、人々は腫れ物に苦しみ、雹といなごが作物を奪い、三日間の闇が続いた。最後の災いは、エジプトのすべての初子の死だった。イスラエルの人々は子羊を屠ってその血を戸口に塗り、死の使いはその家を「過ぎ越した」。これが過越の祭りの起こりとされる。

イスラエルの民の出発(デイヴィッド・ロバーツ画、1829年)
イスラエルの民の出発(デイヴィッド・ロバーツ画、1829年)Wikimedia Commons David Roberts · Public domain

その夜、王はついに民を去らせた。物語は、出て行った者を女と子どもを除いて徒歩の男だけで約60万人と記す。家族を含めれば200万人ほどになる計算である。王は気を変えて戦車で追ったが、モーセが手を差し伸べると海が分かれ、民は乾いた地を渡った。追ってきた戦車は戻ってきた水にのまれた。ここで渡った海は、ヘブライ語の原文では「ヤム・スーフ(葦の海)」であり、「紅海」という呼び名は、紀元前3世紀ごろに始まるギリシア語訳(七十人訳)に由来する。

民は荒野をさまよい、天から降るマナで飢えをしのぎ、エジプトを出て3か月目にシナイの山のふもとに着いた。山は雷と雲に包まれ、角笛の音が響く中で、神はモーセを通じて十戒と律法を与えた。神はこの民を自分の民とし、民はこの神だけに仕えるという契約である。モーセが山に登っている間に、民が金の子牛の像を作って拝んだため、モーセは怒って十戒を刻んだ石の板を砕き、のちに作り直したと語られる。民はその後40年荒野をさまよい、モーセは約束の地カナンをネボ山の頂から見渡して、そこに入ることなく120歳で死んだ。その墓の場所を知る者はいない、と聖書は結ぶ。

『エジプトのイスラエル』(エドワード・ポインター画、1867年)
『エジプトのイスラエル』(エドワード・ポインター画、1867年)Wikimedia Commons Edward Poynter · Public domain

では、これは実際に起きたことなのか。物語の舞台とされる時代について、多くの研究者が考えてきたのは、紀元前13世紀、エジプト新王国のラムセス2世の時代である。物語に出てくる倉庫の町ラメセスは、この王が三角州に建てた都ピ・ラメセスを思わせる。紀元前1208年ごろのエジプト王メルネプタハの戦勝碑には、カナンの地に「イスラエル」という集団がいたことが記されている(メルネプタハ碑)。これがイスラエルという名の最古の記録であり、その頃までにはカナンにイスラエルと呼ばれる人々がいたことになる。一方、聖書の列王記の記述から逆算して、紀元前15世紀とする説もある。

しかし、物語どおりの出来事を裏づける証拠は見つかっていない。エジプトの記録には、大量の奴隷の脱出も、十の災いも、王の軍が海に沈んだことも書かれていない。シナイ半島には、数十万人が40年間暮らした跡が残っていない。紀元前12世紀ごろにカナンの丘陵地帯に現れた多くの小さな村は、考古学の上では、外から来た人々というより、その土地の住民が移り住んで作ったものに見える。そのため、現在の考古学者や歴史家の多くは、物語に描かれたような大規模な脱出は起きなかったと考えている。

それでも、何の記憶もないところから物語が生まれたわけではない、と考える研究者も多い。エジプトには、紀元前2千年紀を通じて、西アジアから来たセム系の人々が住み、奴隷や労働者として働いていたことが知られている。紀元前17世紀から16世紀には、セム系の支配者たちがエジプト北部を治め、やがて追い出された(ヒクソスのエジプト支配)。小さな集団がエジプトから逃れてカナンに来て、その体験がやがてイスラエル全体の物語になったのではないか、という説もある。モーセをはじめ、一部の人物の名がエジプト語に由来することは、その手がかりの一つとされる。物語が今の形に書きまとめられたのは、早くとも王国の時代、多くの研究者によれば紀元前6世紀のバビロン捕囚の前後とされる。祖国を失った人々にとって、奴隷の地から救い出された物語は、切実な意味を持ったはずである。

バビロン捕囚に関わる図版:Tissot The Flight of the Prisoners
バビロン捕囚Wikimedia Commons James Tissot · Public domain

この物語は、三つの宗教の土台になった。ユダヤ教では、毎年春の過越の祭りの夜、家族が食卓を囲み、物語を読み上げ、苦菜と種なしパンを食べる。古い教えは、どの世代の人も、自分自身がエジプトから出てきたものと考えなければならない、と定めている。食卓は「来年はエルサレムで」という言葉で終わる。キリスト教では、イエスが十字架にかけられたのは過越の祭りの時期であり、最後の晩餐は過越の食事として描かれる。イエスの死と復活は、新しい解放の物語として語られた。イスラームでは、モーセはムーサーと呼ばれ、クルアーンで最も多く名を挙げられる預言者である。

物語は、虐げられた人々の言葉にもなった。アメリカの奴隷たちは、モーセよ行け、王に告げよ、わが民を去らせよ、と歌った。南部から多くの奴隷を北へ逃がしたハリエット・タブマンは、「モーセ」と呼ばれた。1968年4月3日、キング牧師(キング牧師)はメンフィスでの演説で、自分は山の頂に登り、約束の地を見た、自分は皆と一緒にそこへ行けないかもしれない、と語った。ネボ山のモーセを重ねた言葉である。翌日、彼は撃たれて死んだ。歴史として確かめられない物語が、2500年以上にわたって歴史を動かしてきた。

動画(1)

006 シリア・パレスチナの諸民族 世界史20話プロジェクト第01話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第6講「シリア・パレスチナの諸民族」

同じ時代のできごと

甲骨文字紀元前13世紀エジプト・ヒッタイト平和条約BC1259年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC1250年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →