できごと

パトリキウスのアイルランド布教

Patrick begins his mission in Ireland
AD432年(伝承)
重要度 3
北極圏の海獣狩猟民ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西ローマ帝国東ローマ帝国サーミフン帝国西ゴート東ゴートAD432年(伝承)アーマー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD432年(伝承)の版図を描いています(9勢力)。

概要

16歳でアイルランドの海賊にさらわれて奴隷になったブリタニアの少年が、逃げ帰り、司教になって戻った。ローマの外の島が、ローマの軍なしでキリスト教になった。

場所

アーマー
54.35°N -6.65°E · 北アイルランド

関わった人(1)

パトリキウス(聖パトリック)AD385年頃–AD461年頃 · 宣教

本文

パトリキウスについて確かに本人の言葉と言えるのは、二つの短いラテン語の文書だけである。一つは晩年に書いた『告白』、もう一つは、改宗したばかりの信者を殺し、さらった兵の主コロティクスを責める手紙である。どちらも、本人が「無学」と恥じる、ぎこちないラテン語で書かれている。生まれた年も死んだ年も、この二つからは分からない。

『告白』によれば、彼はブリタニアの小さな町の生まれで、父カルプルニウスは教会の助祭、祖父は司祭だった。手紙のほうでは、父は町の参事を務める身分だったとも書く。ローマの属州としてクラウディウスのブリタニア征服から続いてきたブリタニアは、5世紀の初めにローマの軍が引き揚げ、西の海から襲撃を受けるようになっていた。16歳になる少し前、彼は村を襲った者たちに捕らえられ、本人の言葉では「何千人もの人々と一緒に」アイルランドへ連れて行かれた。

聖パトリックの墓とされる場所、ダウンパトリック
聖パトリックの墓とされる場所、ダウンパトリックWikimedia Commons August Schwerdfeger · CC BY 4.0

アイルランドはローマの軍が一度も渡ってこなかった島で、町も貨幣もなく、多くの小さな王が治めていた。少年はそこで6年、家畜の番をした。子どものころは神を知らなかったと本人は言うが、奴隷の身で祈るようになり、「一日に百度、夜にもほとんど同じだけ」祈ったと書いている。ある夜、夢の中で「おまえの船は用意されている」という声を聞いた。港はおよそ200マイル先にあった。彼は逃げてそこまで歩き、渋る船乗りに乗せてもらって島を離れた。

故郷に戻ってしばらくして、また夢を見た。アイルランドから来たという男が手紙を差し出し、そこには「アイルランドの人々の声」とあった。「聖なる若者よ、どうかもう一度来て、私たちの間を歩いてほしい」。彼がどこで聖職者になる学びをしたのかは分からない。ガリアで学んだという伝えがあるが、本人は書いていない。

蛇を追い払う聖パトリック
蛇を追い払う聖パトリックWikimedia Commons Lyricmac at English Wikipedia · CC BY 2.5

ローマ教皇がパラディウスという人をアイルランドの信者たちのもとへ最初の司教として送ったのは431年で、これは同時代の年代記に記録がある。つまり島には、すでに少数のキリスト教徒がいた。パトリキウスが司教として島に戻ったのを432年とするのは、パラディウスの翌年に置いた後世の年代記で、確かめる手立てはない。5世紀の半ばごろ、と幅を持たせて言うのが無難である。

『告白』は、布教の自慢ではなく弁明として書かれている。故郷の教会の上の人々が、若いころの罪を持ち出して彼を責めたらしい。彼は答える。自分は何千人もの人に洗礼を授け、王族の息子や娘を修道の道に入れた。女たちが祭壇に置いていった装身具は返し、洗礼の礼金も受け取らなかった。王たちには贈り物をし、旅の安全を買った。一度は仲間とともに捕らえられ、鎖につながれたこともあったという。異教の祭司の力が残る土地で、身を守るものは何もなかった。

聖パトリックの鐘を収めた聖具箱
聖パトリックの鐘を収めた聖具箱Wikimedia Commons Elkington & Co. · CC0

コロティクスへの手紙は、その危うさを伝える。ブリタニアのキリスト教徒であるはずの王の兵が、洗礼の白い衣を着たばかりの新しい信者たちを殺し、生き残った者を奴隷として売った。パトリキウスは、彼らを教会から締め出すと宣言し、捕らえた者を返せと迫る。かつて自分がさらわれた側だった男が、今度はさらわれた信者のために書いている。

よく知られた話の多くは、後の時代のものである。三つ葉のクローバーで三位一体を説いたという話は、18世紀の初めまで書き物に出てこない。蛇を島から追い払ったという話も伝説で、アイルランドには氷河期のあと、もともと蛇がいなかった。死んだのは461年とも490年代ともされ、命日を3月17日とする伝えが今のセント・パトリックス・デーになった。

1909年の聖パトリックの日の絵葉書「エリン・ゴー・ブラー(永遠にアイルランド)」
1909年の聖パトリックの日の絵葉書「エリン・ゴー・ブラー(永遠にアイルランド)」Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アーマーの教会は、7世紀ごろからパトリキウスが開いたと主張し、アイルランドの首座の座を得た。どこまでが本人の働きで、どこからが後の教会の都合で付け足されたのかは、いまも研究者の間で議論が続いている。確かなのは、ローマの外にあった島が、征服ではなく、こうした人々の行き来でキリスト教を受け入れていったことだ。やがてこの島から修道士たちが海を渡り、コルンバのアイオナ修道院のように、ブリテンの北や大陸へ信仰と書物を運び返すことになる。パトリキウス(聖パトリック)がさらわれて渡った海を、今度は逆の向きに。

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