オットー1世の戴冠
概要
教皇から帝冠を受けた。のちに神聖ローマ帝国と呼ばれる枠組みが、ここから800年以上続く。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
オットー1世AD912年11月23日–AD973年5月7日 · 当人本文
800年のクリスマスにカール大帝がローマで皇帝の冠を受けて(カール大帝の戴冠)から、皇帝の位はカール大帝の子孫に受け継がれた。しかしフランク王国は孫の代に分割され、9世紀の後半には帝位は名ばかりのものになった。最後はイタリアの有力者たちが帝冠を奪い合い、924年にイタリア王ベレンガーリオ1世が殺されると、皇帝はいなくなった。西ヨーロッパは、北からヴァイキング、南からイスラム勢力、東からマジャール人の侵入にさらされていた。
東フランク、のちのドイツでは、カロリング家が絶えた後、ザクセン公の家が王位に就いた。オットー1世は、936年、父ハインリヒ1世の後を継いで、カール大帝ゆかりのアーヘンで王として戴冠した。オットーは、反抗する弟や公たちとの争いを経て王権を固め、各地の司教や修道院長に土地と権限を与えて王の手足とした。結婚できない聖職者の地位は世襲されないため、王が任命し直すことができる。教会を国の統治の柱にするこの仕組みは、オットーの時代に形づくられ、のちに帝国教会政策と呼ばれる。
951年、オットーはイタリアに遠征し、未亡人となっていたイタリアの王妃アーデルハイトと結婚して、イタリア王の称号も手にした。955年には、レヒフェルトでマジャール人を破った(レヒフェルトの戦い)。半世紀にわたってヨーロッパを荒らしてきた騎馬の民の侵入を止めたことで(マジャール人のパンノニア定住)、オットーの名声は高まった。年代記作者は、勝利の後、兵士たちがオットーを皇帝とたたえたと書いている。

960年、ローマの教皇ヨハネス12世が、イタリアの有力者ベレンガーリオ2世に脅かされ、オットーに助けを求めた。ヨハネスは18歳前後で教皇になった、ローマの有力貴族の家の若者だった。オットーは再びアルプスを越え、962年2月2日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ヨハネス12世から皇帝の冠を受けた。妻のアーデルハイトも皇后として冠を受けた。帝位が途絶えてから、38年ぶりのことである。
数日後、オットーは「オットーの特権状」と呼ばれる文書を出し、ピピンの寄進以来の教皇の領地を認めた。その代わり、新しく選ばれた教皇は、聖別の前に皇帝の使者の前で誓いを立てることとされた。教皇を守るのは皇帝であり、皇帝は教皇の選出に口を出せる、という関係である。

その関係はすぐに試された。皇帝の力が強くなりすぎることを恐れたヨハネス12世は、オットーがローマを離れると、その敵と手を結んだ。963年、オットーはローマに戻って会議を開き、ヨハネス12世を廃位して、別の人物を教皇に立てた。冠を授けた教皇を、冠を受けた皇帝が退けたのである。
オットーの戴冠は、のちに神聖ローマ帝国と呼ばれる国の始まりとされる。ただし、当時はただ帝国、あるいはローマ人の帝国と呼ばれていた。「神聖」の語が加わるのは12世紀、「神聖ローマ帝国」の名が使われるのは13世紀のことである。帝国の中心はドイツにあり、皇帝になるにはドイツの王に選ばれた後、ローマで教皇から冠を受けることが長く慣わしになった。歴代の皇帝はそのたびにアルプスを越えてイタリアへ出かけ、イタリアの政治に深く巻き込まれた。

皇帝と教皇のどちらが上かという問いは、11世紀に爆発する。聖職者を任命する権利をめぐって、皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が争い、皇帝が雪の中で許しを乞うカノッサの屈辱が起きた。オットーが教会を統治の柱にしたことが、皮肉にも、教会の自立を求める動きとの衝突を準備していたことになる。オットーは973年に亡くなった。彼から始まる神聖ローマ帝国は、1806年、ナポレオンの時代に解散するまで、形を変えながら800年以上続いた。