イスラエル王国の滅亡
概要
アッシリアが北の王国を滅ぼし、住民を各地へ移した。南のユダだけが残る。ユダヤ教が一神教としてまとまっていくのは、この生き残った側でのことになる。
場所
32.28°N 35.20°E · ヨルダン川西岸
関わった人(1)
サルゴン2世?–BC705年 · アッシリア王本文
紀元前722年頃、北のイスラエル王国の都サマリアが、アッシリアの軍に落とされた。2世紀ほど続いた王国は、ここで終わった。
旧約聖書によれば、ダビデのエルサレムから続いた統一王国は、ソロモンの死後、北のイスラエルと南のユダに割れた。北には10の部族、南にはユダ族とベニヤミン族が属したとされる。北のほうが土地が広く、豊かで、人口も多かった。紀元前9世紀、オムリ王が新しい都を丘の上に築き(オムリのサマリア建設)、その王朝のもとで北の王国は周辺でも有力な国になった。アッシリアの記録にも、モアブの王の碑文(メシャ碑)にも、オムリの名が出てくる。聖書の外の史料に名が残るほどの国だった。
紀元前8世紀の後半、メソポタミア北部のアッシリアが、かつてない規模の帝国として西へ伸びてきた(新アッシリア帝国)。周辺の小国は、貢ぎ物を納めて従うか、隣国と組んで逆らうかを迫られた。北の王国は、その間で揺れ続けた。王が次々に殺されて替わり、アッシリアに従う派と逆らう派が争った。
紀元前730年代、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世が攻め込み、北の王国の北部と、ヨルダン川の東を奪って住民を連れ去った。残ったのは、サマリアの周りのわずかな土地だけになった。最後の王ホシェアは、はじめは貢ぎ物を納めて従ったが、やがてエジプトに助けを求め、貢ぎ物を止めた。

アッシリアの王シャルマネセル5世が軍を送り、サマリアは3年にわたって囲まれた。都が落ちたのは紀元前722年か721年で、ちょうどその頃シャルマネセルが死に、サルゴン2世が王になった。サルゴン2世は自分の碑文で、サマリアを取り、2万7290人を連れ去ったと記している。聖書は落としたのをシャルマネセルとも読める書き方をしていて、どちらの手柄かには議論がある。
アッシリアのやり方は、住民を土地から引き離すことだった(アッシリアの強制移住)。王や役人、職人など、国を動かす人々を帝国の遠くへ移し、代わりにバビロンやシリアなど別の土地の人々をここへ入れた。土地と人の結びつきを断ち、反乱を起こせないようにする。連れ去られた人々は、行った先で暮らし、少しずつ周りに混じっていった。

こうして10の部族は、記録から消えた。「失われた十支族」と呼ばれる。その行方をめぐっては、アフガニスタンにいる、エチオピアにいる、アメリカ大陸に渡った、日本に来た、など数多くの説が唱えられてきたが、どれも確かな根拠に乏しい。実際には、連れ去られたのは住民の一部で、多くの農民は土地に残ったと考えられている。
サマリアの地には、移されてきた人々と残った住民が暮らした。聖書は、この人々の宗教を混じりものとして描く。後にサマリア人と呼ばれる人々が、ここから生まれたとされる。サマリア人自身は、自分たちこそ古いイスラエルの正統な子孫だと考えており、いまも少数ながら共同体が続いている。

南のユダは、アッシリアに貢ぎ物を納めて生き残った。考古学の調査では、この時期にエルサレムの町が急に広がったことが分かっている。北から逃れてきた人々が流れ込んだと考えられる。北の伝承や記録も、彼らとともに南へ運ばれたのだろう。紀元前701年には、ユダもアッシリアの大軍に囲まれたが(センナケリブのエルサレム包囲)、都は落ちなかった。
北の王国はなぜ滅んだのか。旧約聖書の歴史書は、はっきり答えている。北の人々は、イスラエルの神のほかに、バアルなどの神々を拝んだ。神に背いたから滅ぼされたのだ、と。この説明は、紀元前7世紀のヨシヤの改革のころに整えられた歴史の書き方に通じている。拝む神を一つに絞り、礼拝の場所をエルサレムの神殿だけにする。北の滅亡は、その主張を支える最も強い例として語られた。
それから140年ほどのち、南のユダもバビロニアに滅ぼされる(バビロン捕囚)。だがユダの人々は、北とは違って、連れ去られた先で自分たちの神と律法を守り続け、やがて故郷へ戻った。滅びの経験を、神との約束に背いた結果として語り直す。その語り方が、ユダヤ教を一つの神を信じる宗教として固めていった。北の王国の滅亡は、その最初の大きな手本になった。