イェクノ・アムラク
概要
ソロモン王とシバの女王の子孫を名乗ってザグウェ朝に代わった。この王統は1974年まで続くので、700年もった建国の物語になる。
関わったできごと(1)
エチオピア・ソロモン朝の成立AD1270年 · 王朝を開いた本文
イェクノ・アムラクの生年は分からない。エチオピア高原の中部、アムハラと呼ばれる地方の、キリスト教徒の有力者の家に生まれた。ハイク湖の島にある修道院で、修道院長イヤスス・モアのもとに学んだと伝えられる。この修道院は当時の学問の中心で、のちに王朝と教会を結ぶ大きな役割を果たす。
そのころ高原を治めていたのは、ザグウェ朝だった。かつて紅海の交易で栄え、4世紀にエザナ王のもとでキリスト教国となったアクスム王国は、10世紀ごろまでに衰え、その後を継いだのが、高原の北部の山地に住むアガウの人々の王家である。ザグウェ朝の王たちも熱心なキリスト教徒で、王の一人ラリベラは、岩山を掘り抜いた11の教会を造らせた(ラリベラの岩窟教会)。だがアムハラの人々から見れば、アクスムの王統につながらない外来の王家だった。

1270年、イェクノ・アムラクはザグウェ朝の最後の王を倒した。戦いの細かな経過は、後世の年代記や聖人伝にしか残っていない。伝承では、王は教会の中に逃げ込んだところを討たれたという。また、高名な聖人テクレ・ハイマノトやイヤスス・モアが王位の交代を仲立ちし、その見返りに教会が国の土地の3分の1を受け取った、という話も伝わるが、これは教会の権利を正当化するため後に作られた物語と考えられている。
イェクノ・アムラクが掲げたのは、血統だった。自分は、アクスムの最後の王の子孫であり、さらにさかのぼれば、イスラエルの王ソロモンとシバの女王のあいだに生まれたメネリク1世の子孫である、というのである。ザグウェ朝はその血を引かないから、正統な王ではなかった。王位はいま、本来の家に戻ったのだ、という理屈になる。こうして始まった王朝は、のちにソロモン朝と呼ばれる(エチオピア・ソロモン朝の成立)。

その物語を最も完全な形で書いたのが、『ケブラ・ナガスト』(諸王の栄光)である。イェクノ・アムラクの孫の時代の14世紀初めに、アクスムの聖職者がまとめたとされる。シバの女王はソロモンの知恵を聞いてエルサレムを訪ね、王とのあいだに子をもうけた。成長した息子メネリクは父を訪ね、帰国するとき、神とイスラエルとの契約を納めた「契約の箱」をエチオピアへ持ち帰った。だから神に選ばれた民は、いまやエチオピアの民であり、その王はソロモンの正統な後継者なのだ、と。エチオピアの教会は、いまもアクスムの教会に契約の箱が納められていると信じている。
イェクノ・アムラクの治世そのものについて分かることは少ない。エジプトのマムルーク朝のスルタン、バイバルスに宛てた書簡が、エジプト側の記録に残っている。エチオピアの教会は代々、アレクサンドリアの総主教から主教を送ってもらっていたが、その派遣が遅れていることを訴え、取りなしを求めたものである。高原のキリスト教の王が、イスラームの大国と交渉しながら国を保っていたことが分かる。ラリベラの近くには、彼が建てたと伝えられるゲネタ・マリアム教会があり、その壁画が残っている。宮廷では、アムハラの言葉が重んじられるようになり、それがのちのエチオピアの共通語アムハラ語へとつながっていく。1285年、イェクノ・アムラクは死に、息子が跡を継いだ。

この王統は、途中で衰えた時期や、別の系統が王位を握った時期をはさみながら、1974年まで続いた。16世紀にはイスラームの軍に国土の大半を奪われ(アフマド・グラーニュ)、18世紀から19世紀には皇帝が名ばかりになった「諸侯の時代」もあったが、そのたびにソロモンの血という物語が王位を支えた。19世紀末にイタリアを破った皇帝メネリク2世も、その名を物語から取っている。
最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世のもとで定められた1955年の憲法は、皇帝の血統が、シバの女王とソロモン王の子メネリク1世から途切れることなく続いている、と条文に明記していた。13世紀の建国の物語が、20世紀の憲法の条文に残っていたことになる。1974年、飢饉と経済の混乱のなかで軍の革命が起き、皇帝は退位させられ、翌年に死んだ。700年あまり続いた物語は、そこで終わった。