できごと

クリュニー修道院の創立

Cluny Abbey
AD910年
重要度 3
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグハザールキエフ・ルーシベドウィンベルベル系の人びとファーティマ朝サーミキエフ・ルーシ東ローマ帝国スラヴの諸部族アグラブ朝マクリア後ウマイヤ朝東フランク王国イドリース朝カロリング朝フランク王国西フランク王国ノルウェー王国第一次ブルガリア帝国アヴァールMagyarsバルトの諸部族Swedes and Gothsクロアチア王国デーン人IrlandaMerciaアストゥリアス王国セルビアChudsPechenegsLombard duchiesAD910年クリュニー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD910年の版図を描いています(34勢力)。

概要

領主ではなく教皇に直属する修道院として作られた。ここから教会を世俗の手から取り戻す運動が広がる。

場所

クリュニー
46.43°N 4.66°E · フランス

本文

9世紀から10世紀のヨーロッパでは、修道院は土地を寄進した領主のものだった。領主は院長を自分で選び、身内や家臣をその座に就け、修道院の収入を自分の財布のように使った。ヴァイキングやマジャール人の襲撃で多くの修道院が焼かれ、ベネディクトの戒律が定めた祈りと労働の暮らしは、各地で崩れていた。

910年、アキテーヌ公ギヨーム1世は、ブルゴーニュの小さな村クリュニーに修道院を建てるため、自分の領地を寄進した。その設立文書が変わっていた。修道院は使徒ペテロとパウロに捧げられ、ローマ教皇の保護のもとに置かれる。寄進した公自身も、その一族も、王も、司教も、修道院の財産に手を出してはならない。修道士たちは、ベネディクトの戒律に従って自分たちで院長を選ぶ。間に誰も入らない、という取り決めだった。

クリュニー修道院の鐘楼
クリュニー修道院の鐘楼Wikimedia Commons Public domain

初代の院長はベルノで、それに続く院長たちが長く在任したことが、修道院の力になった。オドは各地の修道院の立て直しに招かれ、マイオルス、オディロ、ユーグと続く院長は、それぞれ数十年にわたって修道院を率いた。ユーグの在任は60年に及ぶ。代替わりが少なければ、方針はぶれない。

クリュニーが重んじたのは、絶え間ない祈りだった。日に何度も礼拝を重ね、詩編を歌い、とくに死者のために祈った。11月2日に亡くなったすべての信者を記念する「死者の日」は、オディロがクリュニーとその傘下で始めたものが広まったとされる。領主たちは、自分と先祖の魂のために祈ってもらおうと、競って土地を寄進した。

5代院長オディロンの像
5代院長オディロンの像Wikimedia Commons GO69 · CC0

各地の修道院がクリュニーの傘下に入った。傘下の修道院はそれぞれ独立した院長を持たず、クリュニーの院長が全体を束ねた。その数は最盛期に千を超えたともいわれる。一つの修道院が、国境を越える巨大な組織の頭になった。

クリュニーの力は、フランスの外にも及んだ。イベリア半島でイスラーム勢力と争っていたカスティーリャ王アルフォンソ6世は、クリュニーに毎年多額の金を納め、修道士たちに自分のための祈りを託した。サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼の道筋にも、クリュニー系の修道院が並んだ。

その中から、教会全体を立て直そうとする動きが育った。聖職の売り買いをやめる。聖職者の妻帯をやめる。そして、俗人が聖職者を任命することをやめる。のちに教皇グレゴリウス7世がこの改革を押し進め、皇帝と真っ向から争うことになる(カノッサの屈辱)。グレゴリウス7世自身がクリュニーにいたかどうかは、はっきりしない。

カノッサの屈辱に関わる図版:Schwoiser Heinrich vor Canossa
カノッサの屈辱Wikimedia Commons Eduard Schwoiser (1826 — 1902) · Public domain

確かなのは、クリュニーの副院長だったオドが教皇ウルバヌス2世になったことである。1095年、彼はフランス中部のクレルモンで十字軍の呼びかけを行った。その帰途、クリュニーで新しい大聖堂の祭壇を祝福している。

その大聖堂は1088年に着工し、16世紀にローマのサン・ピエトロ大聖堂が建て直されるまで、キリスト教世界で最大の教会だった。院長ピエールは12世紀、イスラームを知るためにコーランをラテン語に訳させた。異端とされて行き場を失ったピエール・アベラールを迎え入れ、最期をみとったのもこの院長である(アベラールとエロイーズ)。

6第院長ユーグ(左奥)
6第院長ユーグ(左奥)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

豊かさは批判も招いた。12世紀には、シトー会のベルナルドゥスが、豪華な聖堂と長すぎる典礼を非難し、質素な労働の暮らしへ戻ることを説いた。改革の旗手は、やがて改革される側に回った。フランス革命の後、大聖堂は売り払われ、石切り場として崩された。いま残るのは、その南の翼廊の一部だけである。

修道院が後世に残したものには、建築もある。クリュニーとその傘下の修道院が各地に建てた石造りの聖堂は、半円のアーチと厚い壁を特徴とするロマネスクの様式を広めた。入口の上を飾る、最後の審判の浮き彫りの多くは、こうした修道院の聖堂に彫られている。

同じ時代のできごと

後三国の分立AD892年遣唐使の中止AD894年ラーズィー『天然痘と麻疹について』AD900年頃マジャール人のパンノニア定住AD895年『竹取物語』AD900年頃肩で引くAD900年頃マヤ低地の崩壊AD900年頃蹄鉄AD900年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD910年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →