クリュニー修道院の創立
概要
領主ではなく教皇に直属する修道院として作られた。ここから教会を世俗の手から取り戻す運動が広がる。
場所
46.43°N 4.66°E · フランス
本文
9世紀から10世紀のヨーロッパでは、修道院は土地を寄進した領主のものだった。領主は院長を自分で選び、身内や家臣をその座に就け、修道院の収入を自分の財布のように使った。ヴァイキングやマジャール人の襲撃で多くの修道院が焼かれ、ベネディクトの戒律が定めた祈りと労働の暮らしは、各地で崩れていた。
910年、アキテーヌ公ギヨーム1世は、ブルゴーニュの小さな村クリュニーに修道院を建てるため、自分の領地を寄進した。その設立文書が変わっていた。修道院は使徒ペテロとパウロに捧げられ、ローマ教皇の保護のもとに置かれる。寄進した公自身も、その一族も、王も、司教も、修道院の財産に手を出してはならない。修道士たちは、ベネディクトの戒律に従って自分たちで院長を選ぶ。間に誰も入らない、という取り決めだった。
初代の院長はベルノで、それに続く院長たちが長く在任したことが、修道院の力になった。オドは各地の修道院の立て直しに招かれ、マイオルス、オディロ、ユーグと続く院長は、それぞれ数十年にわたって修道院を率いた。ユーグの在任は60年に及ぶ。代替わりが少なければ、方針はぶれない。
クリュニーが重んじたのは、絶え間ない祈りだった。日に何度も礼拝を重ね、詩編を歌い、とくに死者のために祈った。11月2日に亡くなったすべての信者を記念する「死者の日」は、オディロがクリュニーとその傘下で始めたものが広まったとされる。領主たちは、自分と先祖の魂のために祈ってもらおうと、競って土地を寄進した。

各地の修道院がクリュニーの傘下に入った。傘下の修道院はそれぞれ独立した院長を持たず、クリュニーの院長が全体を束ねた。その数は最盛期に千を超えたともいわれる。一つの修道院が、国境を越える巨大な組織の頭になった。
クリュニーの力は、フランスの外にも及んだ。イベリア半島でイスラーム勢力と争っていたカスティーリャ王アルフォンソ6世は、クリュニーに毎年多額の金を納め、修道士たちに自分のための祈りを託した。サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼の道筋にも、クリュニー系の修道院が並んだ。
その中から、教会全体を立て直そうとする動きが育った。聖職の売り買いをやめる。聖職者の妻帯をやめる。そして、俗人が聖職者を任命することをやめる。のちに教皇グレゴリウス7世がこの改革を押し進め、皇帝と真っ向から争うことになる(カノッサの屈辱)。グレゴリウス7世自身がクリュニーにいたかどうかは、はっきりしない。

確かなのは、クリュニーの副院長だったオドが教皇ウルバヌス2世になったことである。1095年、彼はフランス中部のクレルモンで十字軍の呼びかけを行った。その帰途、クリュニーで新しい大聖堂の祭壇を祝福している。
その大聖堂は1088年に着工し、16世紀にローマのサン・ピエトロ大聖堂が建て直されるまで、キリスト教世界で最大の教会だった。院長ピエールは12世紀、イスラームを知るためにコーランをラテン語に訳させた。異端とされて行き場を失ったピエール・アベラールを迎え入れ、最期をみとったのもこの院長である(アベラールとエロイーズ)。

豊かさは批判も招いた。12世紀には、シトー会のベルナルドゥスが、豪華な聖堂と長すぎる典礼を非難し、質素な労働の暮らしへ戻ることを説いた。改革の旗手は、やがて改革される側に回った。フランス革命の後、大聖堂は売り払われ、石切り場として崩された。いま残るのは、その南の翼廊の一部だけである。
修道院が後世に残したものには、建築もある。クリュニーとその傘下の修道院が各地に建てた石造りの聖堂は、半円のアーチと厚い壁を特徴とするロマネスクの様式を広めた。入口の上を飾る、最後の審判の浮き彫りの多くは、こうした修道院の聖堂に彫られている。