概要
ヨーロッパのキリスト教は、復活の教義から火葬を避けてきた。19世紀後半、都市の墓地が満杯になり、地下水の汚染が問題になった。外科医ヘンリー・トンプソンが、1874年に火葬協会を設立した。彼が挙げた理由は、衛生と、土地と、そして貧しい者の埋葬費である。1884年、ウェールズの医師が自分の子の遺体を焼いて起訴され、裁判所が「火葬は、公然と迷惑を及ぼさない限り、違法ではない」と判断した。1902年、火葬法。日本では、仏教とともに古くから行われていた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ヘンリー・トンプソンAD1820年8月6日–AD1904年4月18日 · はじめた本文
**キリスト教と、火葬**。
初期のキリスト教徒は、**土葬**を選んだ。
理由——**肉体の復活**。
(最後の審判のとき、死者の体が復活する。そのために、体を残す。
ただし、神学的には、火葬が復活を妨げるという議論は、成り立たない。全能の神なら、灰からでも復活させられる。実際、殉教者は焼かれ、獣に食われ、それでも聖人とされた。
より重要だったのは、**火葬が異教のやり方だった**ことである。ローマ人が、火葬をしていた。だから、キリスト教徒は、それをしない。)
**785年**、シャルルマーニュが、征服したサクソン人に対して、**火葬を死罪とする法**を出した。
(異教の風習を根絶するため。)
以後、ヨーロッパで、火葬は事実上、消えた。
(例外——**ペスト**の流行時。大量の死体を処理するために焼かれた。そして、**異端者と魔女**。焼くことは、**罰**であり、復活を拒む行為として意味づけられた。)
**19世紀の問題**。
**都市が、膨張した**。
- ロンドンの人口——1801年 約100万 → 1851年 約240万 → 1901年 約650万。 - そして、人が死ぬ。
**墓地が、満杯になった**。
**ロンドンの状況**。
1840年代の調査が、事態を明らかにした。
- 市内の教会付属墓地に、年間**5万体**が埋められていた。 - 面積は、まったく足りない。 - **浅く埋める**。ときに、地表から数十センチ。 - 新しい埋葬のために、**前の遺体を掘り出して砕く**。 - 骨を燃やして処分する。 - そして、墓地の隣の井戸から、水を汲む。
(1839年、**ジョージ・アルフレッド・ウォーカー**(医師)が『**都市の墓地**』を出版し、実地の調査を報告した。彼は、墓地の隣に住む人々の病と、その悪臭を記録した。
彼の運動が、1852年の**埋葬法**につながり、市内の墓地が閉鎖され、郊外に大規模な墓地が作られた。)
**しかし、それでも足りない**。
**火葬の運動**。
**きっかけ**——1869年、フィレンツェの国際医学会議で、**火葬を推進する決議**が採択された。
背景にあったのは、
- **衛生**(当時、瘴気説が有力だった。腐敗する遺体が、病を起こすと考えられていた)。 - **土地**。 - そして——**反教権主義**。
(イタリアとフランスで、火葬を推進したのは、**自由思想家とフリーメイソン**だった。教会の埋葬の独占を破る手段として。
だから、カトリック教会は、これに強く反対した。1886年、教皇庁が**火葬を明確に禁じた**。この禁令が緩和されるのは、**1963年**である。)
**ヘンリー・トンプソン**。
イギリスの外科医。ヴィクトリア女王の侍医の一人。
(泌尿器の外科で、当代随一とされた。ベルギー王レオポルド1世と、亡命中のナポレオン3世の、膀胱結石の手術を行った。ナポレオン3世は、その手術の後に死んだ。)
彼は、**1873年のウィーン万国博覧会**で、イタリアの技師**ブルネッティ**が展示した火葬炉を見た。
(ブルネッティは、実際に焼いた遺灰を、展示していた。標語——「**土に返るより、灰から新たに**」。)
**1874年1月**、彼は雑誌『**同時代評論**』に論文を書いた。
「**火葬——死者を処理する方法としての、埋葬に代わるもの**」。
**彼が挙げた理由**。
(1)**衛生**。腐敗の産物が、土壌と地下水に入る。
(2)**土地**。「**生者が、死者に、これ以上の土地を明け渡すことはできない**」。
(3)**費用**。貧しい者にとって、埋葬の費用は重い。(当時、葬儀の見栄のために借金をする風習が、労働者階級で広く行われていた。)
(4)**衛生的な処理の速さ**。
(5)そして——彼が付け加えた、実際的な議論。**遺灰は、肥料として使える**。
(この最後の点は、当時も評判が悪かった。)
**同年、火葬協会**(The Cremation Society of England)を設立。
賛同者——外科医、化学者、そして**アンソニー・トロロープ**(小説家)、**ジョン・エヴァレット・ミレー**(画家)ら。
**建設と、抵抗**。
1878年、ロンドン近郊**ウォーキング**に、火葬炉を建てた。
(イタリアのゴリーニ教授の設計。試験として、馬を一頭焼いた。)
**地元が、猛反対した**。
(住民が請願を出し、内務大臣**リチャード・クロス**が、使用の禁止を通告した。)
施設は、**使えないまま、7年**放置された。
**判決**。
**1884年**。
ウェールズの町**ランエリスタン**の医師**ウィリアム・プライス**(当時83歳)。
(極めて特異な人物である。医師であり、チャーティスト運動の活動家であり、そして自称**ドルイド僧**だった。狐の毛皮の頭飾りをかぶり、緑の衣を着て歩いた。婚姻の制度を否定し、80歳のとき、家政婦との間に子をもうけた。)
その子——生後5か月で死んだ。
彼は、その名を「**イエス・グリスト**」(ウェールズ語で「イエス・キリスト」)と名付けていた。
1884年1月13日、彼は、丘の上で、その遺体を**焼いた**。
(灯油をかけ、樽に入れて。)
群衆が集まり、火を消そうとした。彼は逮捕された。
**裁判**(カーディフ巡回裁判所、判事ジェームズ・スティーヴン)。
判決の要旨——
「**火葬は、それが公然の迷惑を引き起こす方法で行われない限り、違法ではない**」。
(当時のイングランド法に、火葬を禁じる明文の規定がなかった。判事は、それを確認した。)
**プライスは、無罪になった**。
(彼は、この裁判の費用について、訴追側から賠償を得た。そして、その金でメダルを作らせた。
1893年、彼自身が死んだとき、**2万人**が見守る中で、火葬された。)
**その後**。
- **1885年3月26日**、ウォーキングで、**イングランドで最初の公式の火葬**が行われた。ジャネット・ピカップという女性。その年の火葬——**3件**。 - **1902年**、**火葬法**(Cremation Act)。手続きと、施設の規制を定めた。合法化が、明確になった。 - 1902年、ゴールダーズ・グリーン火葬場(ロンドン)。 - 1904年、トンプソンが死んだ。**彼自身も、火葬された**。
**普及**。
イギリスの火葬率。
- 1900年——0.1%未満 - 1950年——約16% - 1968年——**50%を超えた** - 現在——**約78%**
(決定的だったのは、**第二次大戦後の墓地の不足**と、費用と、そして宗教的な感覚の変化である。)
**カトリック教会**。
1886年の禁令が、**1963年**に緩和された。
(第二バチカン公会議の時期。「信仰の否定を表明する意図によるものでない限り、火葬は許される」。
ただし、2016年の教理省の指針で、**遺灰を家に置くこと、分けること、そして撒くこと**は、認められないとされた。聖なる場所に安置することが求められる。)
**日本**。
まったく違う経緯をたどった。
- **700年**、僧**道昭**の火葬が、文献上の最初とされる。 - 702年、**持統天皇**——天皇として最初の火葬。 - 仏教とともに、広まった。ただし、江戸期を通じて、地域と宗派によって差が大きく、土葬も多かった。 - **1873年(明治6年)、火葬が禁止された**。(神道の国教化政策の中で、火葬を仏教的なものとして排斥した。) - **1875年、2年で撤回された**。(都市部で、埋葬地が確保できなかった。特に東京で、実務が回らなかった。) - 以後、都市化とともに、火葬が急速に広がった。 - 現在——**99.9%以上**。世界で最も高い。
**現在**。
世界の火葬率は、上がり続けている。
理由——都市の土地、費用、宗教的な拘束の弱まり、そして移動する社会(墓を守る子孫が、その土地にいない)。
そして、新しい方法も現れている。
- **アルカリ加水分解**(水と水酸化カリウムで、体を分解する。「水火葬」)。 - **堆肥化**(2019年、ワシントン州が合法化した)。 - 遺灰から**ダイヤモンド**を作る。宇宙へ打ち上げる。樹木の根元に埋める。
150年前、ロンドンの外科医が、都市の墓地が満杯になったという実務の問題から始めたことである。