できごと

近代の火葬

Cremation Society of Great Britain
AD1874年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトドイツ帝国スペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1874年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1874年の版図を描いています(23勢力)。

概要

ヨーロッパのキリスト教は、復活の教義から火葬を避けてきた。19世紀後半、都市の墓地が満杯になり、地下水の汚染が問題になった。外科医ヘンリー・トンプソンが、1874年に火葬協会を設立した。彼が挙げた理由は、衛生と、土地と、そして貧しい者の埋葬費である。1884年、ウェールズの医師が自分の子の遺体を焼いて起訴され、裁判所が「火葬は、公然と迷惑を及ぼさない限り、違法ではない」と判断した。1902年、火葬法。日本では、仏教とともに古くから行われていた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

ヘンリー・トンプソンAD1820年8月6日–AD1904年4月18日 · はじめた

本文

古代のローマでは、死者を焼くのはごく普通のことだった。だが初期のキリスト教徒は、遺体を土に埋めることを選んだ。最後の審判の日に死者が体ごとよみがえるという信仰があったからである。もっとも、神学の理屈としては、焼いたら復活できないという議論は成り立たない。

全能の神なら灰からでもよみがえらせることができるし、実際に火あぶりにされたり獣に食べられたりした殉教者たちも聖人として敬われた。むしろ大きかったのは、火葬が異教のローマ人のやり方だったことである。キリスト教徒は、異教徒と同じことはしなかった。インドのヴァーラーナシーのように、火葬を信仰の中心に置く文化とは正反対の道である(ヴァーラーナシーの火葬)。

ウォーキング火葬場(1878年建設)
ウォーキング火葬場(1878年建設)Wikimedia Commons User:Jack1956 · CC0

785年、フランク王国のカール大帝は、征服したザクセンの人々に対して、死者を異教のやり方で焼いた者を死刑に処すという法を出した。異教の習わしを根こそぎにするためである。以後、ヨーロッパで火葬は事実上姿を消した。例外は、黒死病のような疫病で死体があふれたときと、異端者や魔女の処刑だった。焼くことは罰であり、よみがえりを拒む行いとして意味づけられた。

19世紀、ヨーロッパの都市は爆発的に膨らんだ。ロンドンの人口は、1801年に100万人ほどだったものが、1851年には約240万人、1901年には600万人を超えた。人が増えれば、死ぬ人も増える。都市の墓地は、たちまちあふれた。

英国火葬協会の創設者ヘンリー・トンプソン
英国火葬協会の創設者ヘンリー・トンプソンWikimedia Commons Barraud & Jerrard, Photographers · Public domain

1840年代の調査によれば、ロンドン市内の教会の墓地には、毎年何万もの遺体が埋められていた。土地が足りないので浅く埋め、新しい遺体を入れるために前の遺体を掘り出して砕き、骨を燃やして処分することさえあった。そして墓地の隣の井戸から、人々は水を汲んでいた。

医師ジョージ・アルフレッド・ウォーカーは、1839年に墓地の実態を調べた本を出し、墓地のそばに住む人々の病気と悪臭を記録した。当時は、腐ったものから出る悪い空気が病気を起こすという瘴気説が広く信じられていて、あふれた墓地は町の健康を脅かすものと見なされた。彼の運動は、1852年の埋葬に関する法律につながり、市内の墓地は閉じられて、郊外に大きな共同墓地が作られた(パリでは一足先に、ペール・ラシェーズ墓地のような郊外の墓地が作られていた)。それでも、墓地の土地不足はすぐにまた深刻になった。

ペール・ラシェーズ墓地に関わる図版:Pere Lachaise Chemin Errazu
ペール・ラシェーズ墓地Wikimedia Commons Peter Poradisch · CC BY 2.5

火葬を復活させようという動きは、イタリアから始まった。1869年、フィレンツェで開かれた国際医学会議が、火葬を勧める決議をした。理由は衛生と土地だったが、もう一つ、教会への対抗という面があった。イタリアやフランスで火葬を推し進めたのは、自由思想家やフリーメイソンで、彼らにとって火葬は、死者の扱いを独占する教会の力を崩す手段でもあった。だからカトリック教会は強く反発し、1886年、教皇庁は信者が火葬を選ぶことをはっきり禁じた。

イギリスでこの運動を率いたのが、外科医のヘンリー・トンプソンである。泌尿器の手術で当代随一とされ、ヴィクトリア女王の外科医の一人に名を連ね、ベルギー王レオポルド1世や、亡命していたナポレオン3世の膀胱結石の手術を手がけた。ナポレオン3世は、その手術の後に亡くなっている。1873年、トンプソンはウィーンの万国博覧会で、イタリアの解剖学者ブルネッティが展示した火葬の炉と、実際に焼いた遺灰を見た。

翌1874年1月、トンプソンは雑誌『同時代評論』に、埋葬に代わる遺体の処理の方法として火葬を勧める論文を書いた。彼が挙げた理由は、まず衛生である。遺体が腐ってできるものが土と地下水にしみこむ。次に土地。生きている者が、死者のためにこれ以上の土地を手放すことはできない、と彼は書いた。

そして費用である。当時の労働者の家庭では、見栄えのする葬儀のために借金をすることが珍しくなく、埋葬の費用は貧しい人々に重くのしかかっていた。彼はさらに、遺灰は肥料に使えるという実利的な議論まで付け加えたが、これは当時も評判が悪かった。同じ年、彼は仲間とともにイングランド火葬協会を作った。小説家のアンソニー・トロロープや画家のジョン・エヴァレット・ミレーも賛同者に名を連ねた。

協会はロンドン南西の郊外ウォーキングに土地を買い、火葬の炉を建てた。1879年には試しに一頭の馬を焼き、炉が使えることを確かめた。ところが地元の住民が猛反対して請願を出し、内務大臣リチャード・クロスは、炉を使わないよう協会に求めた。法律が火葬をはっきり認めていない以上、遺体を焼けば罪に問われるおそれがあった。炉は何年も使われないまま放置された。

局面を変えたのは、思いがけない人物だった。ウェールズのラントリサントに住む医師ウィリアム・プライスである。1800年生まれのこの老人は、かつて労働者の権利を求めるチャーティスト運動に加わり、自らを古代のドルイドの祭司と名乗って、狐の毛皮の頭飾りと緑の衣で歩き回る、きわめて風変わりな人物だった。結婚の制度を認めず、80歳を過ぎて、若い家政婦との間に男の子をもうけた。彼はその子を、ウェールズ語で「イエス・キリスト」を意味する名で呼んだ。

1884年1月、その子が生後5か月で死んだ。プライスは丘の上で、灯油をかけて小さな遺体を焼いた。集まった人々が火を消し、彼は逮捕された。カーディフの裁判所で裁判を担当したジェームズ・スティーヴン判事は、イングランドの法には火葬を禁じる規定が無いことを確かめ、火葬は公衆に迷惑を及ぼすやり方で行われない限り違法ではない、という判断を示した。プライスは罪に問われなかった。1893年に彼自身が死んだとき、その遺体は大勢の見物人が見守る中で焼かれた。

この判決で道が開けた。1885年3月26日、ウォーキングの炉で、イングランドで最初の正式な火葬が行われた。その年に火葬されたのは、わずか3人だった。1902年には火葬に関する法律が作られ、手続きと施設の決まりが定められて、火葬ははっきりと合法になった。同じ年、ロンドンにゴールダーズ・グリーン火葬場が開かれた。トンプソンは1904年に死に、彼自身も火葬された。

イギリスの火葬はゆっくりと広がった。1900年には死者の千人に一人もいなかったが、第二次世界大戦の後、墓地の不足や費用、宗教の感じ方の変化が重なって急速に増え、1960年代の後半には半数を超えた。いまでは8割近くが火葬である。カトリック教会も、1963年、第二バチカン公会議の時代に禁止を緩め、信仰を否定する意図によるものでなければ火葬を認めた。ただし2016年の指針では、遺灰を自宅に置いたり、分けたり、撒いたりすることは認められず、教会の墓地などの聖なる場所に納めることが求められている。

日本の火葬は、まったく違う道をたどってきた。文献に残る最初の火葬は、700年の僧道昭のものとされ、天皇として初めて火葬されたのは703年の持統天皇である。火葬は仏教とともに広まったが、江戸時代までは地域や宗派によって差が大きく、土葬も多かった。明治の初め、神道を重んじる政府は、火葬を仏教のものとして退け、1873年に火葬を禁じた(火葬禁止令)。だが東京などの都市では埋める土地が足りず、実務が回らなくなって、禁令はわずか2年で取り消された。その後、都市の膨張とともに火葬は急速に広がり、いまの日本の火葬の割合は99.9%を超え、世界で最も高い。

世界でも、火葬は増え続けている。都市の土地が足りないこと、費用、宗教の縛りが弱まったこと、そして人が生まれた土地を離れて暮らし、墓を守る子孫がそばにいなくなったことが理由である。新しい方法も現れた。アルカリ性の液で遺体を分解する方法や、遺体を土に返す堆肥化は、2019年にアメリカのワシントン州が初めて認めた。都市の墓地があふれたという実務の問題から、一人の外科医が始めたことが、いまでは多くの国で当たり前の弔い方になっている。

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