できごと

キリスト教の国教化

Edict of Thessalonica
AD380年
重要度 5
AD380年

概要

テオドシウス帝がニケーア信条を国家の信仰と定めた。他の祭祀は禁じられていく。

本文

380年2月、東方の皇帝テオドシウス1世は、西方の皇帝グラティアヌス・ウァレンティニアヌス2世と連名で勅令を出した。最初の語から「クンクトス・ポプロス(すべての民)」と呼ばれる。ローマの民はすべて、使徒ペトロがローマに伝えた信仰、すなわちローマの司教ダマスス、アレクサンドリアの司教ペトロスが奉じる信仰に従え、と命じた。父と子と聖霊を同じ神格として信じる者だけをカトリックと呼び、それ以外を異端と呼んで、罰を予告している。

勅令そのものに「国教」という語は無い。それでも、皇帝が一つの教義を全臣民の信仰として定め、それ以外を法で排除しはじめた点で、後にキリスト教の国教化と呼ばれる転換の出発点とされる。

そこへ至るまでの道のりは短い。303年にはディオクレティアヌスの大迫害があり、教会は焼かれ、聖書は没収された。わずか10年後の313年、コンスタンティヌス1世らのミラノ勅令で信仰の自由が認められる。だが、その後のキリスト教は一枚岩ではなかった。キリストを父なる神と同質とみるか、被造物とみるかで争いが続き、ニケーア公会議が前者を正統と決めた後も、コンスタンティウス2世のように反対派に近い皇帝が出た。361年にはユリアヌスが即位し、古い神々の祭祀を復興しようとした(ユリアヌスの異教復興)。テオドシウスの勅令は、この二つの争い、つまり異教との争いと教会内部の争いに、皇帝の権力で決着をつけようとするものだった。

ディオクレティアヌスの大迫害に関わる図版:Flagellation St Erasmus Crypta Balbi
ディオクレティアヌスの大迫害Wikimedia Commons Public domain

もっとも、帝国の外ではこの決着は及ばなかった。ドナウ川の向こうのゴート族には、ニケーアの信条を退ける側の宣教師ウルフィラスがキリスト教を伝えていた。そのためゴート族やヴァンダル族など、後に西ローマの各地に王国を建てる諸部族の多くは、帝国では異端とされた信仰を奉じることになる。正統と異端の線引きは、ローマ人とゲルマン人の対立にも重なって、その後数百年にわたって尾を引いた。

テオドシウスはヒスパニア出身の軍人で、378年にウァレンス帝がゴート族との戦いで戦死した後の危機の中、翌379年に東方の皇帝に引き上げられた。勅令が出た380年には、テッサロニケで重い病にかかり、そこで洗礼を受けている。当時は死の間際まで洗礼を延ばす者が多かったから、在位中に洗礼を受けた皇帝として、信仰を政治の中心に置く姿勢がはっきりしていた。

翌381年、テオドシウスはコンスタンティノープルで公会議を開き、ニケーアの信条を確認させた。異端とされた側は首都の教会から追い出された。西方では、ローマの元老院議事堂にあった勝利の女神の祭壇が撤去され、元老院議員シュンマクスが復旧を願ったが、ミラノの司教アンブロシウスが強く反対して退けられた。古い神々は、ローマの公の場から一つずつ姿を消していった。

同じ頃、グラティアヌスは歴代皇帝が帯びてきた最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)の称号を退けたとされる。いつ退けたのかには諸説あるが、皇帝が古いローマの祭祀の長であることをやめた、という象徴的な出来事として語られる。

皇帝と教会の力関係を示すできごともある。390年、テッサロニケで暴動が起き、怒ったテオドシウスは住民の虐殺を命じた。アンブロシウスは皇帝に悔い改めを求め、皇帝はそれに従って公に罪を認めた(テオドシウスの謝罪)。皇帝が信仰を定める一方で、教会は皇帝を裁く立場も手に入れつつあった。

391年から392年にかけて、テオドシウスは一連の法で、異教の犠牲を捧げること、神殿に入ることを禁じた。アレクサンドリアでは391年、大神殿セラペウムがキリスト教徒の群衆に破壊された。古代オリュンピアの競技は、393年を最後に途絶えたと長く言われてきた。紀元前776年を始まりとする伝承に従えば、1200年近く続いた祭りの終わりになる。ただし、終わった年をはっきり示す同時代の記録は乏しく、5世紀まで続いていたとみる研究者もいる。

神殿はある場所では閉じられ、ある場所では教会に作り替えられた。異教が一夜で消えたわけではない。地方や知識人の間では古い信仰と学問が生き続け、415年にはアレクサンドリアで女性哲学者が殺される事件も起きた(ヒュパティアの死)。

迫害を受ける側だった宗教が、80年足らずで、他の祭祀を禁じる側に回ったことになる。皇帝にとっては、帝国の東西に散らばる多様な民を一つの信仰でまとめる狙いがあったとされる。この転換の速さは、権力と結びついた信仰がどう振る舞うかの、最も早い実例の一つとして引かれることが多い。

テオドシウスは395年に死に、帝国は二人の息子に分けられた(ローマ帝国の東西分割)。どちらの半分でも、キリスト教はその後の国家と社会の土台であり続けた。

出典(3)

塩野七生 『ローマ人の物語』XIV キリストの勝利
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』第28章
ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第II部 諸文明間の平衡状態(BC500〜AD1500年)

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