人物

エンリコ・ダンドロ

Enrico Dandolo
AD1107年頃 – AD1205年(享年98・推定)
ヴェネツィア共和国重要度 3

概要

90歳を過ぎた盲目のドージェが、第四回十字軍の船賃を払えない騎士たちをコンスタンティノープルへ向けさせた。帝都の略奪で、ヴェネツィアは海の帝国になる。

所属

ヴェネツィア共和国

関わったできごと(1)

第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪AD1204年 · 艦隊を出したドージェ

本文

エンリコ・ダンドロは1107年ごろ、ヴェネツィアの有力な貴族の家に生まれたとされる。生まれた年には疑問もあり、もっと後だったと考える研究者もいる。ダンドロ家は多くの聖職者や役人を出した家で、エンリコも若いころから共和国の外交と商業の仕事に携わった。

第4回十字軍参加を説くエンリコ・ダンドロ、ギュスターヴ・ドレ画
第4回十字軍参加を説くエンリコ・ダンドロ、ギュスターヴ・ドレ画Wikimedia Commons Gustave Doré · Public domain

ヴェネツィアは、東ローマ帝国と特別な関係にあった。帝国から関税の免除などの特権を得て、コンスタンティノープルに商人の居留地を持ち、東地中海の交易で富を築いていた。だがその特権は、帝国の人びとの反感も買っていた。1171年、皇帝マヌエル1世は、帝国中のヴェネツィア人を一斉に捕らえ、財産を没収した。ダンドロは、その後の交渉のための使節の一人としてコンスタンティノープルに赴いている。

ダンドロは、晩年には目が見えなかった。十字軍に同行したフランスの騎士ヴィルアルドゥアンは、目は一見ふつうに見えたが、自分の手さえ見えなかった、と書いている。コンスタンティノープルで皇帝の命令で目を潰されたという話が後に広まったが、同時代の記録には無く、のちの作り話とみられる。頭を打ったことが原因だったという記述もあり、確かなことは分からない。

エンリコ・ダンドロ治世の貨幣(グロッソ)
エンリコ・ダンドロ治世の貨幣(グロッソ)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1192年、ダンドロはヴェネツィアのドージェ(元首)に選ばれた。80歳を超えていたとされる。

1201年、フランスの貴族たちが率いる第四回十字軍の使節がヴェネツィアにやって来た(第四回十字軍)。聖地を取り戻すために、まずエジプトを攻めたい。そのための船を用意してほしい、という依頼だった。ヴェネツィアは、騎士4500人と馬、従者9000人、歩兵2万人を運ぶ船と1年分の食料を用意し、代わりに銀8万5000マルクを受け取る、という契約を結んだ。さらにヴェネツィアは自ら50隻の軍船を出し、得たものの半分を取ることになった。ヴェネツィアは商船の行き来を止め、国を挙げて1年がかりで艦隊を作った。

第四回十字軍に関わる図版:ConquestOfConstantinopleByTheCrusadersIn1204
第四回十字軍Wikimedia Commons Loyset Liédet · Public domain

ところが1202年、約束の日にヴェネツィアに集まった十字軍の兵は、予定の三分の一ほどにすぎなかった。残りの者は別の港から出発したり、参加を取りやめたりしていた。兵が少なければ、船賃も集まらない。支払いは大きく足りなかった。

ダンドロは代わりの案を出した。アドリア海の東岸の港町ザラ(いまのクロアチアのザダル)は、ヴェネツィアに背いてハンガリー王の側についていた。その町を取り戻す手伝いをすれば、支払いを待とう、というのである。ダンドロは自らサン・マルコ聖堂で十字架を身に着け、十字軍に加わった。1202年11月、十字軍はザラを攻め落とした。キリスト教徒の町を、しかも十字軍に加わった王の町を攻めたことに、教皇インノケンティウス3世は激怒し、十字軍を破門した。

エンリコ・ダンドロの肖像(19世紀初頭の版画)
エンリコ・ダンドロの肖像(19世紀初頭の版画)Wikimedia Commons Unknown; 19th Century Italian · Public domain

そこへ、もう一つの話が持ち込まれた。廃位された東ローマ皇帝の息子アレクシオスが、父の帝位を取り戻してくれれば、20万マルクの金と1万の兵を出し、東西の教会を一つにすると約束したのである。十字軍の指導者たちとダンドロはこれを受けた。反対して隊を離れた者も多かった。

1203年夏、艦隊はコンスタンティノープルに着いた。海側の城壁を攻めたとき、兵たちがためらうのを見て、ダンドロは聖マルコの旗を掲げた船の舳先に立ち、自分を岸に上げよ、と命じた、とヴィルアルドゥアンは書いている。90代の盲目の元首の姿に兵たちは奮い立ち、城壁の一角を奪った。皇帝は逃げ、アレクシオスは父と共に帝位に就いた。

だが約束の金は払えなかった。都の人びとは外国の軍と、そのために重税を課す新しい皇帝を憎んだ。1204年はじめ、アレクシオスは宮廷の反乱で殺された。十字軍とヴェネツィアは都を再び攻め、4月、ついに陥落させた(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。三日間にわたって略奪が続き、教会も宮殿も荒らされた。ヴェネツィアの持ち帰った宝の中には、いまもサン・マルコ聖堂を飾る四頭の青銅の馬もあった。

十字軍は、コンスタンティノープルにラテン帝国を建てた。ダンドロは皇帝の位を辞退したが、帝国の領土の「4分の1と、その半分」、つまり8分の3を、ヴェネツィアに取らせた。ヴェネツィアは都でも8分の3を手にし、クレタ島やエーゲ海の島々、ギリシアの港を得て、東地中海に広がる海の帝国の土台を築いた。ダンドロは「ローマ帝国の4分の1と半分の主」と名乗った。

1205年、ラテン帝国はブルガリア王の軍にアドリアノープルで大敗した。ダンドロは生き残った兵を率いて都まで退いたが、その年の6月、コンスタンティノープルで死んだ。遺体はハギア・ソフィア大聖堂に葬られたと伝えられる。いまも聖堂の上の回廊に彼の名を刻んだ石があるが、それは19世紀に置かれたものである。

ダンドロは、ヴェネツィアの人びとにとっては共和国に最大の栄光をもたらした元首だった。一方、東ローマの側から見れば、キリスト教の都を略奪させ、帝国を致命的に弱らせた張本人である。この略奪から東ローマ帝国は立ち直れず、のちのオスマン帝国による征服への道を開いたと考えられている(東ローマ帝国)。

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