カール・マルテル
概要
宮宰の庶子で、獄から逃げてフランクを取った。トゥールとポワティエの間でアラブ軍を止め、「鉄槌」と呼ばれた。教会の土地を家臣に配って騎兵を養った。王ではなかったが、その子が王になり、孫がカール大帝。
所属
フランク王国関わったできごと(1)
トゥール・ポワティエ間の戦いAD732年 · フランク軍本文
カール・マルテルは、688年頃に生まれた。父はフランク王国の宮宰、ピピン2世(中ピピン)である。メロヴィング家の王はすでに名ばかりで、王国を実際に動かしていたのは、王の家政を預かる宮宰だった。ただしカールの母アルパイダは正妻ではなく、カールは庶子として扱われた。
714年に父が死ぬと、正妻プレクトルーデはカールを牢に入れ、自分の幼い孫を宮宰に立てた。王国は乱れ、西のネウストリアの貴族が東のアウストラシアに攻め込んだ。715年、カールは牢を抜け出し、アウストラシアの戦士を集めた。716年に一度敗れたものの、同じ年のアンブレーヴ、717年のヴァンシーで勝ち、プレクトルーデを降してケルンにあった父の財宝を手に入れた。自分の都合のよいメロヴィング家の人物を王に立て、宮宰として全王国を握った。
その後の20年あまり、カールはほぼ毎年のように遠征した。北のフリジア、東のアレマン、バイエルン、ザクセン。王国の周りの諸族を討ち、従わせた。南のアキテーヌは公エウドのもとで半ば独立していた。
そのアキテーヌに、ピレネーの南からウマイヤ朝の成立の軍が迫った。イベリア半島を支配したウマイヤ朝のアンダルスの総督アブド・アッラフマーン・アル・ガーフィキーは、732年(733年とする説もある)、ピレネーを越えてボルドーでエウドを破り、富で知られたトゥールのサン・マルタン修道院へ向かった。エウドはかつての敵であるカールに助けを求めた。両軍はトゥールとポワティエのあいだで向かい合った(トゥール・ポワティエ間の戦い)。754年に書かれたイベリアの年代記は、フランクの兵が密集して動かず、氷の壁のように立ちはだかったと記している。数日のにらみ合いのあとの戦いでアブド・アッラフマーンは討たれ、アラブ軍は夜のうちに陣を捨てて退いた。両軍の兵力は分からない。

「マルテル」(鉄槌)の名は、この勝利などをたたえて9世紀ごろから付けられたものである。18世紀のギボンは、もしこの戦いに負けていたら、いまごろオックスフォードではクルアーンが教えられていただろうと書いた。しかし現代の研究者の多くは、この遠征を征服ではなく略奪の遠征とみており、一つの戦いで西欧の運命が決まったとする見方には慎重である。アラブ勢力はその後もプロヴァンスに足場を残し、カールは730年代後半にアヴィニョンやナルボンヌを攻めて南フランスを押さえていった。
戦いを続けるには兵が要る。カールは家臣に土地を与え、その代わりに軍役を負わせた。その土地の多くは教会や修道院の領地から取り上げたものだった。19世紀の歴史家は、土地と軍役の結びつきを封建制の起こりの一つとし、重い馬具の騎兵を養うためだったと説いた。いまでは、騎兵の役割をそこまで強調する説は疑われている。教会の側はカールを恨み、9世紀には、カールが地獄で苦しむ姿を聖人が幻に見たという話が作られた。この話は、子孫のカロリング家に教会の土地を返させる理屈に使われた。

737年に王テウデリク4世が死ぬと、カールは次の王を立てなかった。王がいなくても、宮宰が国を治められることを示したのである。739年、ローマ教皇グレゴリウス3世が、ランゴバルド王国の圧迫からの救援を求めて使者を送ってきた。カールは贈り物を受け取ったが、兵は出さなかった。ランゴバルドはプロヴァンスでのアラブとの戦いの味方だったからである。
741年10月22日、カールはパリ近くのキエルジーの館で死んだ。王位には就かず、宮宰のままだった。遺体は歴代の王が眠るサン・ドニ修道院に葬られた。王国は二人の息子、カールマンとピピン3世(小ピピン)に分けられた。751年、ピピンは教皇の承認を得てメロヴィング家の王を廃し、自ら王になった。父が拒んだ教皇との結びつきを、子は手に入れた(ピピンの寄進)。そしてピピンの子がカール大帝である。カール・マルテルは王にならなかったが、王朝の名「カロリング」は彼の名カールから取られている。