人物

バル・コクバ

Simon bar Kokhba
? – AD135年
ローマ帝国重要度 3

概要

本名はシメオン・ベン・コシバ。「星の子」と呼ばれ、ラビ・アキバにメシアと認められた。三年半ローマと戦い、貨幣を打ち、死海の洞窟に手紙を残した。ベタルの砦で死んだ。後世のラビは「偽りの子」と呼び変えた。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

バル・コクバの乱AD132年 · 指導者

本文

バル・コクバの本当の名が分かったのは、20世紀になってからのことである。古代の史料では、キリスト教の著述家は彼を「バル・コケバス(星の子)」と書き、ユダヤのラビ文献は「バル・コズィバ(偽りの子)」と書いた。1950年代から60年代にかけて、死海のほとりの涸れ谷の洞窟から彼自身の手紙が見つかり、そこに「シメオン・ベン・コシバ」とあった。コシバはおそらく父の名か出身地の名で、それをもじって二つの渾名が生まれたのである。生年も前半生も分からない。

背景には、60年あまり前の破局があった。66年に始まったユダヤ人の反乱は、70年のエルサレム神殿の破壊とマサダの陥落で終わり、神殿は失われたまま再建されなかった。130年頃、各地を巡っていた皇帝ハドリアヌスは、廃墟のエルサレムをローマ風の植民市「アエリア・カピトリナ」として建て直し、神殿の跡にユピテルの神殿を置こうとした、とカッシウス・ディオは書く。割礼が禁じられたことを反乱の原因に挙げる史料もあるが、その時期については議論がある。いずれにせよ、神殿の再建を待ち望んでいた人びとにとって、それは聖地が異教の町に変えられることを意味した。

エルサレム神殿の破壊に関わる図版:(Venice) La distruzione del tempio di Gerusalemme -Francesco Hayez - gallerie Accademia Venice
エルサレム神殿の破壊Wikimedia Commons Didier Descouens · Public domain

132年、反乱が始まった(バル・コクバの乱)。ユダヤの人びとは、ローマ軍が気づかないうちに丘陵の村々に地下の隠れ家や通路を掘り、武器を蓄えていた。先頭に立ったのがシメオンで、彼は「イスラエルの君主(ナスィ)」と名乗った。当時最も尊敬されていた律法学者ラビ・アキバは、民数記の「ヤコブから一つの星が進み出る」という預言をこの男に当てはめ、「これこそメシア王だ」と言ったと伝えられる。星を意味する「コクバ」の名はここから来た。別のラビ、ヨハナン・ベン・トルタはこう答えたという。「アキバよ、あなたの頬に草が生えても、ダビデの子はまだ来ないだろう」。

反乱軍は一時、ユダヤの地の広い範囲を押さえ、独自の行政を敷いた。彼らが打った貨幣が今も多く残っている。ローマの貨幣の上から打ち直したもので、表には「イスラエルの贖いの第1年」「イスラエルの自由の第2年」、のちには「エルサレムの自由のために」と刻まれた。大きな銀貨には神殿の正面が描かれている。神殿を建て直すことが、この戦いの目的だった。エルサレムを実際に取り戻したかどうかは、はっきりしない。

シモン・バル・コクバを記念するイスラエルの切手(1961年)
シモン・バル・コクバを記念するイスラエルの切手(1961年)Wikimedia Commons Designer: A. Kalderon · Public domain

1960年から61年にかけて、考古学者イガエル・ヤディンは、死海の西岸のナハル・ヘヴェルの洞窟で、パピルスや木の板に書かれた手紙の束を見つけた。そこはのちに「手紙の洞窟」と呼ばれる。手紙はヘブライ語、アラム語、ギリシア語で書かれ、シメオンが配下の指揮官たちに宛てたものだった。小麦を送れ、仮庵の祭りのためにナツメヤシの枝やシトロンを集めて届けよ、ガリラヤから来た者たちを粗末に扱うな、命令に従わなければ罰する。「あなたたちは天地の間で何の心配もなく暮らし、兄弟のことを気にかけていない」と叱りつける手紙もある。そこに見えるのは、預言の中の救い主ではなく、物資と規律に追われる苛立った司令官の姿である。

ローマは本気で反乱に向き合った。ユダヤの総督の軍だけでは足りず、ブリタニアから名将ユリウス・セウェルスが呼ばれ、各地から多くの軍団とその分遣隊が集められた。ローマ軍は正面の決戦を避け、反乱軍の拠点を一つずつ包囲し、飢えさせて落としていった。ディオによれば、50の砦と985の村が破壊され、58万人が戦いで殺され、飢えと病と火で死んだ者は数え切れなかった。ローマ側の損害も大きく、ハドリアヌスは元老院への手紙で、いつもの「私と軍団は健在である」という挨拶を書かなかったという。

シモン・バル・コクバの銅像、グリッツェンシュタイン作(1905年)、エレツ・イスラエル博物館
シモン・バル・コクバの銅像、グリッツェンシュタイン作(1905年)、エレツ・イスラエル博物館Wikimedia Commons אהוד הלפרין · Public domain

最後の拠点は、エルサレムの南西の山上の町ベタルだった。135年、長い包囲の末にベタルは落ち、シメオンはここで死んだ。ユダヤの伝承は、陥落の日を、かつて神殿が破壊されたのと同じアブの月の9日とする。タルムードには、彼の遺体の首に蛇が巻きついていて、「神が殺したのでなければ、誰が彼を殺せただろう」と言われた、という話が残っている。ラビ・アキバも捕らえられ、拷問の末に殺されたと伝えられる。

手紙の洞窟には、戦いの終わりに逃げ込んだ人びとの遺骨と持ち物も残されていた。その中には、ババタという女性が財産や結婚の争いに関わる文書を大切に包んで持ってきたものもあった。人びとは洞窟の上の崖にローマ軍が陣を構えたため外へ出られず、そのまま死んだと考えられている。

戦いのあと、ハドリアヌスはユダヤの属州の名を「シリア・パレスティナ」に改めた。エルサレムはアエリア・カピトリナとなり、ユダヤ人が住むことは禁じられた。ユダヤの人びとの暮らしと学問の中心はガリラヤへ移り、そこで律法の口伝をまとめたミシュナが編まれていく。神殿を取り戻す戦いに敗れたあと、ユダヤ教は書物と学びの宗教として生き延びる道を選んだ。

ラビたちは彼を「偽りの子」と呼び、メシアを名乗って民を滅びに導いた者として記憶した。評価が反転したのは19世紀の終わり、シオニズムの運動の中である。バル・コクバは、外国の支配に武器を取って抗った英雄として呼び戻され、イスラエルでは春の祭りラグ・バオメルの日に、子どもたちが弓矢で遊び、彼の名を歌う。1982年、イスラエル政府は手紙の洞窟で見つかった遺骨を、反乱の戦士として国の儀礼で葬った。一方で、勝ち目のない戦いで民族に壊滅的な被害をもたらしたと見る声も、イスラエルの中に根強くある。

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