アッコンの陥落

概要
マムルーク軍が6週間囲み、城壁を崩した。十字軍国家の最後の都市が落ち、200年の海の向こうの王国が終わる。逃げる船に乗れた者は少なかった。
場所
32.93°N 35.08°E · イスラエル
本文
1187年、サラディンはエルサレムを取り戻した(サラディンのエルサレム奪還)。第3回十字軍は1191年にアッコンを奪い返したが(第三回十字軍のアッコン攻囲)、エルサレムには届かなかった。以後のエルサレム王国は、名前だけはエルサレムを冠したまま、アッコンを都にして、地中海沿いの細長い帯を治める国になった。
アッコンは、その後100年、東地中海で最も賑やかな港の一つだった。ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサの商人がそれぞれの居留区を持ち、アジアから陸路で運ばれてくる香辛料や絹、砂糖を船に積んだ。テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団も本部を置いた。だが町の中は一枚岩ではなかった。王の権威は弱く、イタリアの都市どうしは商売の利権をめぐって町の中で市街戦まで起こした。

13世紀の半ば、エジプトでは、奴隷として買われた軍人たちがアイユーブ朝を倒し、自らスルタンとなった。マムルーク朝である(マムルーク朝)。1260年にはパレスチナのアイン・ジャールートでモンゴル軍を破り、続くスルタンのバイバルスは、十字軍の城と町を次々に攻め落とした。1268年には、十字軍国家の一つアンティオキアが落ちている。1289年にはスルタンのカラーウーンがトリポリを落とし、残るのはアッコンと周辺のわずかな町だけになった。
アッコンとマムルーク朝の間には休戦の約束があった。だが1290年、ヨーロッパから着いたばかりの十字軍の兵たちが、アッコンの市場でムスリムの商人たちを殺す事件が起きた。カラーウーンは犯人の引き渡しを求め、拒まれると開戦を決めた。カラーウーンはその年の暮れに死んだが、子のアシュラフ・ハリールが父の遺志を継いだ。

1291年4月の初め、ハリールの大軍がアッコンを囲んだ。兵の数は10万を超えたともいわれるが、確かではない。シリアの各地から巨大な投石機が運ばれ、その数は72とも92とも伝わる。この攻囲には、のちに歴史家として知られるシリアの王族アブル・フィダーが、若い指揮官として加わり、投石機の一つを担当したことを書き残している。守る側は、騎士団員や市民、巡礼者を合わせても1万数千ほどだったとみられる。5月の初めには、キプロス王アンリ2世が援軍を連れて海から到着したが、形勢は変わらなかった。
投石機と坑道で城壁は少しずつ崩された。5月18日の夜明け、マムルーク軍は一斉に攻めかかり、城壁の角にあった「呪われた塔」と呼ばれる塔から町に突入した。テンプル騎士団の総長ギヨーム・ド・ボージューは、防戦の中で致命傷を負って死んだ。聖ヨハネ騎士団の総長は傷を負いながら船で逃れた。

町は混乱に陥った。港には逃げようとする人々が殺到したが、船は足りなかった。小舟に人が乗りすぎて沈み、エルサレム総大司教も溺れて死んだと伝えられる。船に乗れた者はキプロスへ逃れ、乗れなかった者の多くは殺されるか、捕らえられて奴隷として売られた。海辺に建つテンプル騎士団の館だけが、残った騎士と逃げ込んだ人々を抱えて持ちこたえた。10日後、坑道で土台を崩された館は、攻め入ったマムルーク兵もろとも崩れ落ちた。ハリールは、二度と十字軍の拠点にならないよう、町の城壁と建物を壊させた。
アッコンが落ちると、残りの町は戦わずに放棄された。ティルスは翌日に明け渡され、夏のうちにシドン、ベイルート、ハイファが、8月には最後の城であるアトリットも捨てられた。1099年の第1回十字軍(第1回十字軍のエルサレム占領)からおよそ200年、聖地の海辺に築かれた十字軍の国々は、これで終わった。シリアの沖の小島ルアドだけは、テンプル騎士団が1302年まで守っている。

拠点を失った騎士団は、存在する意味を問われた。聖ヨハネ騎士団はキプロスを経て、1310年にロドス島に移り、海の上でイスラーム勢力と戦い続けた。テンプル騎士団は、巨額の財産を持ちながら戦う場所を失い、1307年にフランス王フィリップ4世の命令で団員が一斉に逮捕された。異端の罪を着せられ、1312年には教皇によって解散させられた。
ヨーロッパでは、その後も聖地を取り戻すための新しい十字軍が何度も論じられたが、実現しなかった。マムルーク朝は、この勝利によって、モンゴルとヨーロッパの両方から聖地を守った者として、イスラーム世界での権威を高めた。アッコンは小さな港町になり、いまは十字軍時代の地下の建物が、世界遺産として公開されている。