教会大分裂

概要
アヴィニョンからローマに戻った教皇が死に、ローマ市民の圧力で選ばれた教皇を枢機卿たちが否認して別の教皇を立てた。二人、のちに三人の教皇が40年並び、ヨーロッパは国ごとにどちらかを選んだ。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
14世紀の初めから、ローマ教皇はローマではなく南フランスのアヴィニョンに住んでいた(教皇のアヴィニョン捕囚)。歴代の教皇も枢機卿もフランス人が多く、フランス王の影響が強いと見られていた。ローマへ戻るべきだという声は高まり、シエナのカタリナは教皇グレゴリウス11世に手紙を送って帰還を促した。1377年1月、グレゴリウスはローマに入った。教皇がローマを本拠にするのは、ほぼ70年ぶりだった。
ところが翌1378年3月、グレゴリウスはローマで死んだ。後継を選ぶ教皇選挙(コンクラーヴェ)に集まった枢機卿は16人で、そのうち11人がフランス人だった。ローマの市民は、フランス人の教皇がまたアヴィニョンへ戻ってしまうことを恐れ、会場の外を取り囲んで「ローマ人を、せめてイタリア人を」と叫び、武器を持って押し入る者まで出た。4月8日、枢機卿たちはナポリ出身のバーリ大司教バルトロメオ・プリニャーノを選んだ。ウルバヌス6世である。

ウルバヌスは有能な実務家と見込まれていたが、即位すると人が変わったように振る舞った。枢機卿たちの贅沢を面と向かって罵り、嘘つき呼ばわりし、イタリア人の枢機卿を大勢増やして多数派を入れ替えると言い出した。フランス人の枢機卿たちは夏の暑さを口実にローマを離れてアナーニに集まり、8月、あの選挙は暴徒の脅しのもとで行われたので無効だと宣言した。9月20日、彼らはナポリ王国のフォンディで、ジュネーヴのロベールを新しい教皇に選んだ。クレメンス7世である。彼は前年、教皇の軍を率いてイタリアのチェゼーナで住民を虐殺させたとされる人物だった。クレメンスはローマを取れず、翌年アヴィニョンに移った。
こうして教皇が二人並んだ。どちらも正当な選挙で選ばれたと主張し、互いを破門した。ヨーロッパの国々は、教会法の議論よりも政治の都合で付く側を決めた。フランスと、その同盟国のスコットランド、そしてナポリはアヴィニョンに付き、カスティーリャとアラゴンも迷った末に加わった。フランスと戦争中のイングランドはローマを支持し、神聖ローマ帝国の大部分、ハンガリー、ポーランド、北欧の国々もローマ側に立った。修道会も司教区も二つに割れ、一つの町に二人の司教がいることもあった。のちに聖人とされた人々も分かれ、シエナのカタリナはローマの教皇を、スペインの説教者ビセンテ・フェレールはアヴィニョンの教皇を支持した。

分裂は教皇が死んでも終わらなかった。ローマ側でもアヴィニョン側でも、それぞれの枢機卿が後継を選んだからである。1394年にアヴィニョンの教皇に選ばれたスペイン人ペドロ・デ・ルナ、すなわちベネディクトゥス13世は、事態の収拾のために退位するよう求められても頑として応じなかった。教会の権威は目に見えて落ちた。イングランドのジョン・ウィクリフは、二人の教皇が互いを呪い合うさまを見て、教皇の制度そのものを批判するようになる。
1409年、両陣営を離れた枢機卿たちがイタリアのピサで公会議を開き、二人の教皇をともに廃位して、アレクサンデル5世を選んだ。だが二人とも退かなかったため、教皇は三人になった。
この混乱を収めたのが、神聖ローマ皇帝となるジギスムントの呼びかけで開かれたコンスタンツ公会議(1414〜18年)である。ピサ系の教皇ヨハネス23世は会議の行方を恐れて逃げ出したが、捕えられて廃位された。ローマ系のグレゴリウス12世は、会議を自分の権威で召集し直す形を取ったうえで、自ら退位した。アヴィニョン系のベネディクトゥス13世は最後まで拒んで廃位され、スペインの海辺の城ペニスコラにこもって、1423年に死ぬまで自分こそ教皇だと言い続けた。1417年11月、会議はマルティヌス5世を選び、教会はようやく一人の教皇のもとに戻った。

コンスタンツ公会議は1415年に、公会議はキリストから直接権力を受けており、教皇もこれに従わなければならないと宣言した。この考えを公会議主義と呼ぶ。同じ会議は、ウィクリフの影響を受けたボヘミアの改革者ヤン・フスを異端として火刑にしている。教皇たちはその後の数十年で公会議主義を押し戻し、1460年には教皇の決定を公会議に訴えることを禁じた。それでも、教皇が二人、三人と並んだ約40年は、教会の頂点が絶対ではないことを人々に示してしまった。およそ100年後の1517年、マルティン・ルターが95か条の論題を掲げたとき、その下地の一つはこの時代にできていた。