トレント公会議
概要
ルターから28年遅れて、カトリックが答えを出した。18年、3期、25回の会議。義認は信仰と行いで、聖書とともに伝統も、ウルガタが正典、七つの秘蹟、司教は自分の教区に住め。以後400年、カトリックの形はこれだった。
場所
46.07°N 11.12°E · イタリア
関わった人(1)
イグナティウス・デ・ロヨラAD1491年頃–AD1556年7月31日 · 会が支えた本文
1517年にマルティン・ルターが贖宥状を批判してから(95か条の論題)、ドイツの諸侯や都市が次々にローマから離れていった。ルターは早くから、教会の誤りは全体の会議、つまり公会議で正すべきだと訴えていた。皇帝カール5世も、帝国の宗教の分裂を収める場として公会議を望んだ。
ところが歴代の教皇は、公会議を恐れていた。百年前のコンスタンツ公会議は、三人の教皇が並び立つ分裂を収めるために、公会議の権威は教皇に勝ると宣言し、教皇を退位させた。その後のバーゼルの公会議も教皇と激しく争っている。公会議を開けば、改革の矛先が教皇自身に向かうかもしれない。そのうえ、皇帝とフランス王が争っている中で、どこで開くかも決まらなかった。教皇パウルス3世は1536年にマントヴァへの召集を発し、翌々年にはヴィチェンツァでも試みたが、司教たちが集まらず流れた。

ようやく開かれたのは、ルターの抗議から28年後の1545年12月13日である。場所はアルプスの南麓の町トレント(トリエント)。神聖ローマ帝国の領内で皇帝の顔が立ち、しかもイタリア語の町で教皇の目も届く。両者の妥協の産物だった。開会の日に集まった司教は30人ほどにすぎず、ドイツからはほとんど来なかった。
公会議は18年に及び、三つの時期に分かれた。第一期は1545年から1547年まで。疫病を理由にボローニャへ移ったことに皇帝が怒って中断した。第二期は1551年から1552年までで、このときはプロテスタント側の使節も一時やってきたが、聖書だけを根拠に論じたいという求めは受け入れられず、ザクセンのモーリッツが皇帝に背いて兵を挙げたため、会議は散った。第三期は1562年から1563年まで。その間に教皇はパウルス3世、ユリウス3世、ピウス4世と三代替わり、正式な会議は合わせて25回を数えた。
会議は、まず信仰の中身を決めた。1546年4月の第4会議は、神の啓示は書かれた聖書と、書かれずに伝えられた伝承の両方にあり、それを同じ敬意をもって受けると宣言した。聖書の正典には旧約のいくつかの書(プロテスタントが外典として退けたもの)も含めるとし、ラテン語訳のヒエロニムスのウルガタを公の場で用いる正式な本文と定めた。聖書を解釈するのは教会であって、個人の判断ではない。聖書だけを掲げるプロテスタントへの、真正面からの答えだった。
1547年1月の第6会議は、人がどのように救われるかという義認の問題を扱った。人は信仰だけで義とされるのではない。神の恵みが先に立つが、人はその恵みに応えて協力することができ、愛に生きる善い行いには意味がある。ルターの名は出さなかったが、論点は一つずつ彼の主張に向けられていた。続く会議で、洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つの秘蹟が確認され、ミサのパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わるという実体変化の教え、ミサが犠牲の捧げものであるという教えが改めて定められた。

信仰の中身を固める一方で、会議は教会の乱れにも手を付けた。ルターが怒りの火を付けた贖宥の施しを集めて回る者たちの職は廃止された。司教は自分の教区に住まなければならない。いくつもの司教座を兼ね、その収入だけを受け取って任地に行かない、という当時ありふれた習いを禁じたのである。教区ごとに司祭を育てる神学校を置くことも命じられた。婚姻は、司祭と証人の前で結ばなければ有効でないとされ、親に知られない秘密の結婚が締め出された。最後の第25会議(1563年12月)では、煉獄、聖人への崇敬、聖像、贖宥についての教えを確かめつつ、その乱用を戒めた。
閉会のあと、決定は教皇の手で形にされていく。1564年に禁書目録とトリエント信仰宣言、1566年に司祭が教えるためのローマ・カテキズム、1570年にはローマ・ミサ典書が出された。このミサ典書によるラテン語のミサ、いわゆるトリエント・ミサは、各地でばらばらだった典礼を一つに揃え、その後400年近くカトリックの礼拝の標準となった。会議の教えを現場に広めたのは、ミラノ大司教カルロ・ボッロメーオのような改革派の司教や、イグナティウス・デ・ロヨラが創った修道会(イエズス会の創立)だった。イエズス会士は神学者として会議の議論にも加わり、その後は学校と宣教で、トレントのカトリックを世界へ運んでいった。

公会議がポリフォニーの教会音楽を禁じかけたのを、作曲家パレストリーナの一曲のミサが救った、という話がある。歌詞の聞き取りやすさが議論されたのは事実だが、この救済の物語そのものは後世の伝説とされる。
この一連の動きは、のちの歴史家によって「反宗教改革」と呼ばれた。プロテスタントへの反撃という見方である。20世紀には、改革の動きはルター以前からカトリックの内部にもあったとして「カトリック改革」と呼ぶ見方が広まった。どちらの面もある。確かなのは、ルターの前には曖昧なまま幅のあった教えが、トレントではっきりと線を引かれたことである。それはカトリックを立て直したが、同時に、プロテスタントとの溝を決定的なものにした。

トレントが作ったカトリックの形は、1962年から開かれた第二バチカン公会議まで、大きくは変わらなかった。この公会議のあと、ミサは各国の言葉で行われるようになり、司祭は会衆の方を向いた。トレントを否定したのか、受け継いで先へ進めたのかは、いまもカトリックの内部で論じられている。2007年には古いラテン語のミサが再び広く許されたが、2021年には教皇フランシスコがそれを再び制限した。四百数十年前の会議は、いまも教会の議論の中にある。