フランシスコ会則の認可
概要
1209年、フランチェスコと11人がインノケンティウス3世に口頭で認められた(教皇は夢でラテラノ大聖堂を支える貧しい男を見た、と伝える)。14年で数千人。1223年、教皇ホノリウス3世が「勅書会則」を認可した。清貧、托鉢、説教、服従。「福音を生きる」。しかし「所有」をどう解釈するかで、フランチェスコの死後、会は割れた(コンヴェントゥアルと聖霊派)。ボナヴェントゥラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカム、ロジャー・ベーコン。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
アッシジのフランチェスコAD1181年–AD1226年10月3日 · 会則本文
始まりは1209年(1210年とも)にさかのぼる。アッシジの裕福な織物商の息子だったアッシジのフランチェスコは、財産を捨てて施しで暮らし、11人の仲間とローマへ行って、教皇インノケンティウス3世に自分たちの生き方を認めてほしいと願い出た。持っていったのは、福音書の言葉をいくつか並べただけの短い「会則」だった。教皇は、ぼろをまとった裸足の一団を前にためらったが、口頭で許しを与えた。そのいきさつはフランチェスコ会の認可に譲る。正式な文書による認可ではなかった、という点がここでは重要である。
それから14年のあいだに、12人の小さな集まりは数千人の修道会になった。兄弟たちはイタリアを出てフランス、スペイン、ドイツ、ハンガリーへ向かい、1224年にはイングランドに上陸した。1219年にはフランチェスコ自身が十字軍の陣営にいたエジプトのダミエッタへ渡り、敵陣に入ってスルタンのアル・カーミルに会っている。1220年には、モロッコへ説教に行った5人の兄弟が殺された。会は、町の広場で説教し、病人の世話をし、施しを乞いながら旅する者たちで溢れ、統一の取れた規則も、指導の仕組みも追いつかなかった。

教会の側も手を打った。1220年、教皇ホノリウス3世は、入会前に1年の修練期を置くこと、誓願を立てた者は勝手に会を離れてはならないことを命じた。枢機卿ウゴリーノ、のちの教皇グレゴリウス9世が会の保護者となった。フランチェスコは同じころ会の総長の座を退き、自分は一人の兄弟として生きることを選んでいる。
1221年、彼は新しい会則を総会に示した。のちに「勅書のない会則(第一会則)」と呼ばれる23章の文書で、福音書の引用が長々と続き、勧めと祈りと叱責が混じり合っていた。修道会の法としては使いにくく、教会法に通じた者たちからは書き直しを求められた。1223年、フランチェスコはリエーティ近くの山中の庵フォンテ・コロンボにこもり、側近のレオーネ修道士と法律家の兄弟ボニツィオの助けを借りて会則を練り直した。草案は総会と教皇庁の手を経て削られ、整えられた。
1223年11月29日、ホノリウス3世は勅書「ソレト・アンヌエレ」によってこの会則を正式に認可した。「勅書会則(第二会則)」と呼ばれ、いまもフランシスコ会の基本の法である。12章と短い。第1章はこう始まる。小さき兄弟たちの会則と生活とは、従順のうちに、何も自分のものとせず、貞潔のうちに生きて、主イエス・キリストの聖なる福音を守ることである。第4章は、兄弟たちが自分で、あるいは人を介してでも、決して金銭を受け取ってはならないと定める。第6章は、家も土地も、どんな物も自分のものにせず、この世の巡礼者・旅人として、施しを信頼して乞えと命じ、これこそが最も高い貧しさであり、それがあなたがたを天の国の相続人とするのだ、と続ける。上長は兄弟たちの僕であるべきだとする条もあり、異教徒の地へ行こうとする者は上長の許しを得よと定める条もある。
文面は短く穏やかになったが、肝心の「何も持たない」をどこまで文字どおりに守るかは、残された問題だった。数千人の兄弟が暮らし、学び、病む以上、建物も本も要る。フランチェスコはそれを予感していた。1226年10月3日に死ぬ前、彼は「遺言」を口述し、会則に注釈を付けてはならない、書かれたとおり単純に守れ、と命じた。
しかし4年後の1230年、かつての保護者グレゴリウス9世は勅書で、遺言には法的な拘束力がないと宣言し、兄弟たちが代理人を通じて金を扱う道を開いた。のちには、兄弟たちが使う物の所有権は教皇庁にあり、兄弟たちは使うだけだという理屈も立てられた(1279年、ニコラウス3世)。大きな修道院を構え、大学で学び、司祭として働くことを受け入れた多数派(のちのコンヴェントゥアル)と、創立者の貧しさを字のとおりに守ろうとする少数の「聖霊派」との対立は深まった。1318年、聖霊派の4人がマルセイユで異端として火刑に処された。1323年、教皇ヨハネス22世は、キリストと使徒が何も所有しなかったと主張するのは異端だと宣言した。総長チェゼーナのミケーレや、哲学者のオッカムのウィリアムは教皇と対立し、1328年に神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のもとへ逃れた。ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』は、この論争のさなか、1327年の北イタリアの修道院を舞台にしている。
分裂は最後には制度になった。1517年、教皇レオ10世は、厳格な貧しさを守る「原始会則派(オブセルヴァント)」と「コンヴェントゥアル」を別の修道会として分けた。1528年には、さらに厳しい生活を求める人々からカプチン会が生まれた。
皮肉なことに、学問を誇ることを戒めた人の始めた会が、中世後期の学問の担い手になった。神学者ボナヴェントゥラは総長として会を立て直し、フランチェスコの公式の伝記を書いた。ロジャー・ベーコンは実験と光学を説き、ドゥンス・スコトゥスは精緻な神学を組み立て、オッカムは「必要もないのに数を増やすな」という思考の節約の原則で知られる(オッカムの剃刀)。貧しさをどう生きるかという一つの問いをめぐる争いが、所有とは何か、教皇の権威はどこまで及ぶか、という問いにまで広がり、中世の思想を大きく動かしたのである。