ネストリウス
概要
アンティオキアの修道士からコンスタンティノープル総主教になり、マリアは「神の母」ではなく「キリストの母」だと説いて断罪された。エジプトの砂漠に流されて死んだ。自分では正統だと最後まで言い、その派はペルシアから中国まで広がった。
所属
ローマ帝国関わったできごと(1)
エフェソス公会議AD431年 · 断罪された側本文
ネストリウスは、5世紀前半にコンスタンティノープルの総主教を務め、異端として退けられた神学者である。聖母マリアを「神の母」と呼ぶことに異を唱えたのが発端だった。彼の名は「ネストリウス派」という呼び名になり、ペルシアから中央アジア、中国にまで広がった東方のキリスト教徒を指す語として使われてきた。だが、彼自身は最後まで自分を正統だと信じ、その教会の人々も自分たちを「ネストリウス派」とは名のってこなかった。

386年ごろ、シリア北部のゲルマニケイア(いまのトルコ南東部のカフラマンマラシュ)に生まれた。アンティオキア近郊の修道院で修道士になり、司祭として説教の名手として知られた。アンティオキアの神学者たちは聖書を字義どおり、歴史の出来事として読むことを重んじ、キリストについても、神としての性質と人としての性質をはっきり分けて考える傾向があった。ネストリウスは、この学派の代表者モプスエスティアのテオドロスの影響を強く受けたとされる。
428年、皇帝テオドシウス2世は、都の聖職者たちの争いを避けるため、遠いアンティオキアから評判の説教者ネストリウスを呼び、コンスタンティノープルの総主教に据えた。就任の説教で、彼は皇帝に向かって言った。「陛下、異端者を一掃した大地を私にお与えください。そうすれば私は陛下に天をお返ししましょう」。言葉どおり、彼はアリウス派の礼拝所を壊させ、ほかの教派も次々に追い立てた。その激しさから「放火魔」とあだ名されたと、教会史家ソクラテスは書いている。異端と戦う側にいた人が、数年後に自分が異端とされることになる。
発端は、ネストリウスがアンティオキアから連れてきた司祭アナスタシオスの説教だった。誰もマリアを「神の母(テオトコス)」と呼んではならない、マリアは人間の女なのだから、と説いて、都の信徒たちを怒らせた。マリアを神の母と呼ぶことは、すでに民衆の信心に深く根づいていたからである。ネストリウスはアナスタシオスをかばった。マリアが産んだのは神性ではなく、神が宿った人としてのキリストであり、「キリストの母」と呼ぶのが正しい、と彼は説いた。「神は生後2か月や3か月の赤子ではない」という言葉も伝えられている。
これに飛びついたのが、アレクサンドリアの総主教アレクサンドリアのキュリロスだった。キュリロスはネストリウスの説を、キリストを神と人の二人に分ける誤りだと攻撃し、ローマ教皇と皇帝の宮廷を味方につけていった。431年、皇帝が招集したエフェソス公会議で、ネストリウスは自分を支持するアンティオキアの司教たちの到着を待つよう求め、出席を拒んだ。キュリロスは待たずに会議を開き、その日のうちにネストリウスを罷免した(エフェソス公会議)。ネストリウスは、手続きを踏まない会議の決定は無効だと抗議したが、皇帝は結局キュリロスの側についた。
ネストリウスはアンティオキア近くの元の修道院に戻ることを許されたが、435年ごろ、皇帝の命令で遠くへ流された。まずアラビアのペトラ、次いでエジプト西方の砂漠のオアシスである。そこでは砂漠の遊牧民の襲撃に巻き込まれて捕らえられ、解き放たれてナイル川沿いの町にたどり着くと、今度は役人に別の場所へ移されるという苦難が続いた。高齢の彼は、手紙の中で骨折と病を訴えている。
流された先で、ネストリウスは自分の立場を弁明する長い書物を書いた。迫害を避けるため「ヘラクレイデス」という別名で出されたこの本は、ギリシア語の原本が失われ、シリア語の訳の写本が19世紀の終わりにクルディスタンの山中で見つかった。その中で彼は、ローマ教皇レオ1世が書いたキリストの二つの本性についての書簡を読み、自分の考えと同じだと喜んでいる。実際、451年のカルケドン公会議が定めた「二つの本性が混じり合わず一つの位格に結ばれる」という正統の定式は、彼の言いたかったことにかなり近い。現代の研究者の多くも、ネストリウスが本当にキリストを二人に分けたのかについては疑問を投げかけている。

死んだ年ははっきりしない。カルケドン公会議の直前の450年ごろとも、その少し後ともいわれる。彼の敵の側の歴史家は、舌を虫に食われて死んだと書いた。異端者にふさわしい最期として描かれたもので、事実かどうかは分からない。
ネストリウスが退けられても、彼が属したアンティオキアの神学は東へ生き延びた。ローマ帝国の東のエデッサにあった学校は489年に皇帝の命令で閉鎖され、教師と学生はペルシアのササン朝(ササン朝の成立)の領内のニシビスへ移った。ローマ帝国と対立するペルシアの王たちにとって、帝国の教会と袂を分かったキリスト教徒は扱いやすい存在だった。ペルシアの教会は「東方教会」としてまとまり、商人や修道士とともにシルクロードを東へ進んだ。635年には唐の都長安に宣教師が到着し、中国ではその教えは「景教」と呼ばれた。781年に建てられた「大秦景教流行中国碑」は、いまも西安に残っている。モンゴル帝国の時代には、遊牧民の部族の中にも多くの信徒がいた。
いま、東方教会の流れをくむアッシリア東方教会などは、イラクやイラン、インド南部、そして移民先の各国に信徒を持つ。彼らはネストリウスを古い教父の一人として典礼の中で敬うが、教会の名にその名を掲げてはいない。1994年には、アッシリア東方教会の総主教とローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、キリストについての信仰は同じであるとする共同の宣言に署名した。1500年あまり前の断罪から生まれた溝は、言葉の違いにすぎなかったのではないかと、両者がようやく認め合ったのである。