フランシスコ・ザビエル
概要
ナバラのバスク貴族。パリ大学でイグナティウス・デ・ロヨラと同室になり、1534年、モンマルトルで7人が誓った。イエズス会。ゴア、マラッカ、モルッカ、日本。「日本人はこれまで会った民の中で最も優れている」。中国へ渡ろうとして、広州沖の上川島で熱で死んだ。46歳。遺体はゴアにあり、腐らないと言われ、右腕はローマにある。
関わったできごと(2)
イエズス会の創立AD1540年9月27日 · 最初の7人ザビエルの来日AD1549年8月15日(天文18年7月22日) · 来た本文
フランシスコ・ザビエルは1506年4月7日、ピレネー山脈の南麓、ナバラ王国のハビエル城に生まれた。バスク人の貴族の家の末っ子である。日本語で「ザビエル」と呼ばれる名は、スペイン語ではハビエル、生まれた城の名そのものだ。

6歳のとき、カスティーリャ(スペイン)がナバラ王国を征服した。父はその数年後に亡くなり、兄たちはナバラ王を支持してフランス側で戦い、敗れた。一族の城は塔と城壁を取り壊された。少年は、家が没落していくのを見ながら育った。
1525年、19歳でパリ大学に入り、サント・バルブ学院に学んだ。同室になったのが、サヴォワ出身の温厚なピエール・ファーヴルと、やがて加わったバスクの元軍人イグナティウス・デ・ロヨラだった。イグナティウスはパンプローナの戦いで砲弾を受けて足を砕かれ、療養中に回心して、神に仕える道を選んでいた。当時30代後半の彼は、学問の道で出世を夢見ていた若いザビエルに、人が全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら何の得があるか、という福音書の言葉を繰り返したという。ザビエルは長く抵抗したが、やがてイグナティウスの霊操を受けて仲間に加わった。

1534年8月15日、イグナティウス、ファーヴル、ザビエルら7人は、パリのモンマルトルの礼拝堂で、清貧と貞潔、そしてエルサレムへの巡礼を誓った。これが修道会の出発点となり、1540年に教皇の認可を受けてイエズス会の創立に至る。マルティン・ルターの宗教改革が始まって20年近く、カトリックの側から生まれた新しい力だった。
同じ1540年、ポルトガル王ジョアン3世が、自国が支配するインドへの宣教師を求めた。予定していた会員が病に倒れたため、ザビエルが代わりに選ばれた。1541年4月7日、35歳の誕生日に、彼はリスボンを出航した。翌年5月、インド西岸のゴアに着き、さらに南端の漁村を巡って、真珠採りを生業とするパラヴァの人々に洗礼を授けた。1545年にはマラッカの陥落以来ポルトガルの拠点となっていたマラッカへ、さらに香料の産地モルッカ諸島へ渡った。

1547年12月、マラッカで、ザビエルは鹿児島出身のアンジロウ(ヤジロウ)という男と出会った。罪を犯して国を逃れてきたというアンジロウは、熱心にキリスト教を学び、日本人は理を重んじる人々で、納得すれば教えを受け入れるだろう、と語った。ザビエルは日本行きを決めた。
1549年8月15日、ザビエルはアンジロウらとともに鹿児島に上陸した(ザビエルの来日)。鉄砲伝来の6年後のことである。領主の島津貴久に布教を許され、その年の11月、ゴアの仲間に宛てた手紙で、日本人はこれまでに出会った民の中で最もすぐれていると書いた。名誉を重んじ、盗みを憎み、貧しくても武士は尊敬される、と彼は書いている。

だが言葉の壁は大きかった。アンジロウの助けで教えを日本語に訳すとき、神を真言宗の「大日」と訳したため、僧たちははじめ仏教の一派として歓迎した。違いに気づいたザビエルは、大日を拝んではならないと説き直し、以後はラテン語の「デウス」をそのまま使うようになった。
鹿児島での布教が行き詰まると、ザビエルは平戸、山口を経て、1551年の初めに京へ上った。天皇に会って全国での布教の許しを得るつもりだったが、戦乱で荒れた都では謁見もかなわず、わずか11日ほどで去った。そこで彼は、貧しい身なりでは相手にされないと考え方を改め、正装して贈り物を整え、山口の大内義隆に会って布教を許された。山口では数百人が洗礼を受けた。豊後の大友義鎮(宗麟)にも招かれた。
2年あまりの滞在で、ザビエルは日本人がしばしば、中国が受け入れていない教えがなぜ正しいのかと問うことに気づいた。日本を変えるには中国から、と考えた彼は、1551年11月に日本を離れた。1552年、中国への入国を目指して、広州の沖の上川島に渡った。明は外国人の入国を禁じており、密かに大陸へ運んでくれる船を待つうちに熱病にかかり、12月3日、島の粗末な小屋で死んだ。46歳。
遺体は石灰とともに葬られたが、のちに掘り出されたとき腐敗していなかったと伝えられる。マラッカを経て1554年にゴアへ運ばれ、ボン・ジェズス教会に安置された。右腕の一部は1614年にローマのジェズ教会へ移された。1622年、ザビエルはイグナティウスとともに聖人に列せられ、のちに宣教の守護聖人とされた。

ザビエルの宣教には、影の部分もある。インドでの布教の困難に直面した彼は、1540年代半ば、ポルトガル王に手紙を送り、ゴアに異端審問所を置くよう求めた。審問所が実際に置かれたのは彼の死後の1560年で、その後2世紀以上にわたり、改宗したヒンドゥー教徒やユダヤ教徒の末裔たちを厳しく裁くことになる。彼が残した多くの手紙はヨーロッパで印刷されて広く読まれ、アジアへの宣教熱をかき立てた。日本についての最初のまとまった報告として、ヨーロッパの人々の日本像を形作ったのも、この手紙だった。