人物

アンブロシウス

Ambrose of Milan
AD339年頃 – AD397年4月4日(享年58・推定)
ローマ帝国重要度 3

概要

属州総督としてミラノの司教選挙を鎮めに行き、群衆に「アンブロシウスを司教に」と叫ばれて、洗礼も受けていないのに司教になった。皇帝を聖堂の外に立たせ、賛美歌を作り、アウグスティヌスに洗礼を授けた。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(2)

アウグスティヌスの回心AD386年8月 · 洗礼を授けたテオドシウスの謝罪AD390年 · 司教

本文

339年頃、ガリアのトリーアで生まれた。父は西方の広い地域を治めるガリア道長官を務めた高官だったとみられる。父が早くに死ぬと、母と姉マルケリナとともにローマへ戻った。のちの伝記作者パウリヌスは、赤子のアンブロシウスが揺りかごで眠っていると、蜂の群れが口の上に集まり、やがて高く飛び去った、という話を伝えている。のちの雄弁を予告する伝説である。ローマで修辞学と法律を学び、弁護士として名を上げ、370年頃、北イタリアのアエミリア・リグリア属州の総督となって、西方の皇帝の宮廷があったミラノに赴任した。

当時の教会は、キリストの神性をめぐって割れていた。父なる神と子なるキリストは同じ本質を持つとするニケーア公会議の立場と、子は父に従属するとするアリウス派の対立である。ミラノの司教アウクセンティウスはアリウス派だった。374年に彼が死ぬと、後任をめぐって両派が聖堂に集まり、騒ぎになった。総督のアンブロシウスは秩序を保つために聖堂に入り、群衆に静まるよう説いた。そのとき、子どもの声で「アンブロシウスを司教に」と叫ぶ声が上がり、群衆がそれに唱和したとパウリヌスは書いている。

ニケーア公会議に関わる図版:Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741
ニケーア公会議Wikimedia Commons C messier · Public domain

彼はまだ洗礼を受けていなかった。当時は大人になるまで洗礼を延ばす者が多く、彼もその一人だった。アンブロシウスはさまざまな手を使って就任を逃れようとし、ついには町から逃げ出したが、皇帝ウァレンティニアヌス1世が選出を認めると、観念した。洗礼を受けてから一週間ほどのうちに聖職の位を順に授けられ、374年12月、司教に叙階された。

司教になると、財産を教会と貧しい人々に分け与えた。神学の素養がなかったため、ギリシア語を生かして、東方のバシレイオス(カイサリアの)やオリゲネスらの著作を読み込み、学びながら説教した。その説教は評判を呼んだ。北アフリカから来てミラノで修辞学を教えていた若いアウグスティヌスも聞きに来た一人である。アウグスティヌスは『告白』で、はじめは話しぶりの巧みさを味わうつもりで聞いていたが、言葉と一緒にその中身も心に入ってきた、と書いている。また、アンブロシウスが声を出さずに目だけで本を読んでいたことに驚いたとも記している。387年の復活祭の夜、アンブロシウスはアウグスティヌスに洗礼を授けた(アウグスティヌスの回心)。

アンブロシウスの肖像
アンブロシウスの肖像Wikimedia Commons Public domain

アンブロシウスの名を高めたのは、皇帝の権力に対して一歩も引かなかったことである。384年、ローマの元老院議員シュンマクスが、元老院の議場から撤去されていた勝利の女神ウィクトリアの祭壇を戻すよう若い皇帝ウァレンティニアヌス2世に願い出ると、アンブロシウスは書簡で強く反対し、これを退けさせた。385年から翌年にかけて、アリウス派を支持する皇太后ユスティナが、ミラノの聖堂の一つをアリウス派の礼拝に明け渡すよう求めたときには、信徒たちとともに聖堂に立てこもって拒んだ。兵に囲まれた聖堂の中で、彼は東方の習慣にならって、会衆に詩編と賛美歌を交互に歌わせた。アウグスティヌスは、西方の教会で歌がこう歌われるようになったのはこのときからだと書いている。アンブロシウス自身が作った賛美歌のいくつかはいまも歌われている。この争いのなかで彼は、皇帝は教会の中にいるのであって、教会の上にいるのではない、と説教で述べた。

キリスト教を国の柱に据えたテオドシウス1世とも、彼は対立をいとわなかった。388年、東方の町カッリニクムで、キリスト教徒が司教にそそのかされてユダヤ教の会堂を焼いた。テオドシウスが司教の負担で建て直すよう命じると、アンブロシウスはこれに抗議し、命令を撤回させた。今日の目から見れば、宗教の寛容に背を向けた行いである。390年、テッサロニキで軍の司令官が殺されたことに怒ったテオドシウスが、競技場に集めた市民を兵に虐殺させると、アンブロシウスは皇帝に書簡を送って、悔い改めるまで聖体を授けないと告げた。テオドシウスは公に罪を告白し、悔い改めの勤めを果たした(テオドシウスの謝罪)。犠牲者の数は7000人とも伝わる。聖堂の扉の前で皇帝を押しとどめたという劇的な場面は、のちの歴史家テオドレトスによる脚色が加わったものとされる。395年にテオドシウスが死ぬと、アンブロシウスはその葬儀で追悼の演説を行った。

アンブロシウスの像
アンブロシウスの像Wikimedia Commons Public domain

397年4月4日、復活祭の前夜にミラノで死んだ。50代の後半だった。遺体は自ら建てた聖堂に葬られ、そこはのちにサンタンブロージョ聖堂と呼ばれるようになった。アウグスティヌス、ヒエロニムス、グレゴリウス1世と並んで、西方教会の四大教会博士の一人に数えられる。ミラノの教会はいまもローマとは異なる独自の典礼「アンブロシウス典礼」を守り、ミラノの人々は自分たちを「アンブロジアーニ」と呼ぶ。皇帝の役人として教会に入り、教会の側から皇帝に向き合った最初の大きな司教だった。中世ヨーロッパで続く教会と王権のせめぎ合いは、その始まりの一つをこのミラノの司教に持っている。

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