できごと

トマス・モアの処刑

Execution of Thomas More
AD1535年7月6日
重要度 4
スペイン帝国ポルトガル帝国ロシア帝国オスマン帝国ノガイ・オルダポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェースウェーデン神聖ローマ帝国リトアニア大公国フランス王国サーミスペインポーランド王国Watassid Moroccoハンガリー王国England and Irelandアストラハン・ハン国クリム・ハン国ヴェネツィア共和国スコットランドHabsburg NetherlandsNaplesプロイセンAD1535年7月6日ロンドン
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概要

王を教会の首長と認める宣誓を拒んだ。「私は王のよい僕だが、神の僕がその前にある」。首は橋に晒され、娘が引き取った。400年後に聖人になり、「すべての季節の男」と映画になった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(2)

トマス・モアAD1478年2月7日–AD1535年7月6日 · 処刑ヘンリー8世AD1491年6月28日–AD1547年1月28日 · 王

本文

トマス・モアは、ロンドンの法律家の家に生まれ、若くして弁護士、外交官として名を上げ、1516年にはトマス・モア『ユートピア』を書いて、エラスムスらヨーロッパの人文主義者たちと並ぶ知識人として知られていた。ヘンリー8世に重く用いられ、1529年には、聖職者でない者として異例の、王国の最高の法官である大法官に任じられた。王とモアは、夜に屋上で星を眺めながら語り合うほど親しかったと伝えられる。

その関係を壊したのは、王の離婚だった。ヘンリー8世は、男子の世継ぎを産まない王妃キャサリンとの結婚を無効にし、アン・ブーリンと結婚しようとした。ローマ教皇がこれを認めないと、王は、イングランドの教会を教皇から切り離す道を選んだ。モアはこの動きに賛成しなかったが、公に反対することもしなかった。1532年5月、聖職者たちが王に屈服した翌日、モアは健康を理由に大法官の職を辞した。翌年のアン・ブーリンの戴冠式に、彼は姿を見せなかった。王はそれを忘れなかった。

トマス・モア(ハンス・ホルバイン(子)画)
トマス・モア(ハンス・ホルバイン(子)画)Wikimedia Commons Hans Holbein the Younger · Public domain

1534年3月、議会は王位継承法を定めた。王とキャサリンの結婚は無効であり、王位はアンの子が継ぐ。国の主だった者たちは、この法を守るという宣誓を求められた。4月13日、ランベスに呼び出されたモアは、王位を誰が継ぐかを議会が決めることには誓ってもよいが、示された誓いの言葉そのものには誓えない、と答えた。その誓いには、教皇の権威を否定し、王の最初の結婚を無効とする中身が含まれていたからである。なぜ誓えないのか、理由を彼は語らなかった。自分は誓った人々を誰も責めない、ただ自分の良心がそれを許さないのだ、とだけ言った。4日後、モアはロンドン塔に送られた。

塔での暮らしは15か月に及んだ。娘のマーガレットが面会に通い、父に誓うよう説いたが、モアは動かなかった。獄中で彼は『苦難に対する慰めの対話』を書いた。トルコ軍に攻められようとしているハンガリーで、老いた叔父と若い甥が、迫害の中でどう信仰を守るかを語り合う形の本で、トルコの脅威の姿を借りて、自分の置かれた立場を語っていると読まれている。

モア家の人々。ハンス・ホルバインの習作をもとに後年の画家が描いたもの。左から次女エリザベス、養女マーガレット、父ジョン、長男の妻アン、トマス、長男ジョン、お抱え道化師ヘンリー・パテンソン、三女シシリー、長女マーガレット、妻アリス
モア家の人々。ハンス・ホルバインの習作をもとに後年の画家が描いたもの。左から次女エリザベス、養女マーガレット、父ジョン、長男の妻アン、トマス、長男ジョン、お抱え道化師ヘンリー・パテンソン、三女シシリー、長女マーガレット、妻アリスWikimedia Commons Rowland Lockey / After Hans Holbein the Younger · Public domain

その年の11月、議会は国王至上法を定め、王をイングランド教会の地上における唯一の最高の首長とした。同時に作られた反逆法は、悪意をもって王の称号を否定する者を反逆者として死刑にすると定めた。法律家であるモアは、ここに逃げ道があることを知っていた。悪意をもって否定しなければ罪にはならない。だから彼は、王が教会の首長であるかについて、肯定も否定もせず、ただ沈黙を守った。

1535年6月12日、法務次官リチャード・リッチが、モアの書物を取り上げるために塔を訪れた。リッチはその場で、仮の話としてモアに問いかけた。もし議会が私を王にする法を作れば、あなたは私を王と認めるか。モアは認めると答え、逆に、では議会が神を神でないと定めたらどうか、と問い返した。のちの裁判で、リッチは、このときモアが、議会は王を教会の首長にすることはできない、と言ったと証言した。モアは、そんなことは言っていない、リッチという男がどういう人間かは皆が知っている、と強く否定した。

フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』
フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』Wikimedia Commons Philippe de Champaigne · Public domain

7月1日、ウェストミンスター・ホールで裁判が開かれた。モアは、沈黙は同意とみなされるというのが法の格言ではないか、と反論したが、陪審は15分ほどで有罪を答申した。判決が下されると、モアは初めて口を開いて胸の内を語った。この法は神の法と教会の法に反している。キリストの教会は一つであり、イングランドはその一部にすぎず、一国の議会がその全体の決まりに反する法を作ることはできない。そして裁判官たちに向かって、聖パウロはかつて聖ステファノが石で打ち殺されるのに賛成したが、二人はいま天国で友となっている、自分たちもいつか天国で喜んで会えるよう祈る、と言った。

7月6日の朝、モアはロンドン塔の外のタワー・ヒルの処刑台へ引き出された。足元のおぼつかない台の階段で、彼は役人に、上るのを手伝ってくれ、下りるのは自分で何とかする、と言ったと、娘婿のウィリアム・ローパーが伝えている。処刑人には、私の首は短いから気をつけて切るように、と声をかけ、さらに、ひげは反逆をしていないからと言って、ひげを台の外へよけたという話も伝わる。最期の言葉として広く知られるのは、自分は王のよき僕として死ぬが、それより先に神の僕である、という一言である。2週間ほど前の6月22日には、同じ理由で誓いを拒んだロチェスター司教ジョン・フィッシャーが、同じ場所で首を落とされていた。

トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)
トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)Wikimedia Commons Carlo Crivelli · Public domain

モアの首はロンドン橋にさらされた。1か月ほどして、娘のマーガレットがそれを引き取ったと伝えられ、首はのちにカンタベリーの聖ダンスタン教会にある娘の嫁ぎ先ローパー家の墓所に納められたとされる。体は、ロンドン塔の中の聖ペテロ・アド・ヴィンクラ礼拝堂に葬られた。翌年には、モアが戴冠式を欠席したアン・ブーリンもそこに葬られることになる。友の死を知ったエラスムスは、深い悲しみを手紙に書き残した。

カトリック教会は1886年にモアを福者とし、死からちょうど400年後の1935年に聖人とした。2000年には政治家の守護聖人と定められている。1960年に初演されたロバート・ボルトの劇『すべての季節の人』は、良心のために沈黙を貫いた人としてモアを描き、1966年に映画化されて、アカデミー賞で6部門を得た。

ドゥンス・スコトゥスの肖像画
ドゥンス・スコトゥスの肖像画Wikimedia Commons Justus van Gent / Pedro Berruguete · Public domain

だがモアには別の顔もある。大法官として、また論争の書き手として、彼はマルティン・ルターの考えに共鳴するイングランドの人々を激しく攻撃し、在職中には異端とされた人々が火刑に処されてもいる。2009年に出たヒラリー・マンテルの小説『ウルフ・ホール』は、王の側近トマス・クロムウェルの目から、モアを冷たく頑なな異端の迫害者として描いた。良心のために死んだ殉教者と、他人の良心を火で裁いた大法官。その両方が、同じ一人の人間の中にあった。

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