モンセギュールの陥落
概要
ピレネーの麓の岩山の城。カタリ派の最後の砦。500人。10か月の包囲。降伏。棄教すれば助ける、と言われて、完徳者200人以上が拒んで、城の下の野原の柵の中で焼かれた。「火刑の野」。伝説では、宝(聖杯、と言う人がいる)を4人が夜に持ち出した。カタリ派は1321年、最後の完徳者が焼かれて、消えた。
場所
42.88°N 1.83°E · フランス
本文
12世紀から13世紀にかけて、南フランスのラングドックには、カトリック教会とは別の信仰が広がっていた。のちにカタリ派と呼ばれる人々で、自分たちは「善き人」と呼んだ。この世界を、善なる神の霊の世界と、悪が作った物質の世界の二つに分けて考え、人の魂は肉体という牢に閉じこめられた天使だと説いた。魂を救う道は、按手によって授けられる「救慰礼(コンソラメントゥム)」だけである。これを受けた「完徳者」は、肉や卵や乳を口にせず、性を断ち、嘘をつかず、誓いを立てず、殺さず、二人一組で歩いて説教した。男だけでなく女も完徳者になった。一般の信者は、死の床でこの救慰礼を受けることを望んだ。
カタリ派は、トゥールーズ伯やフォワ伯をはじめとする南の貴族と町に守られて根を張った。教会は説得に失敗すると武力に訴え、1209年にアルビジョア十字軍が始まった。北フランスの騎士たちによる20年に及ぶ戦争の末、1229年のパリ条約でトゥールーズ伯は屈し、ラングドックは次第にフランス王の支配に組みこまれていく。1230年代からは、ドミニコが始めたドミニコ会の修道士が異端審問を担い、信者の名を聞き出して一人ずつ追いつめた。完徳者たちは山へ逃れた。

その避難所がモンセギュールである。ピレネー山脈のふもと、標高1200メートルあまりの険しい岩山の頂にある城で、1204年ごろ、カタリ派の求めに応じて領主レーモン・ド・ペレイユが建て直した。1232年ごろから、カタリ派の司教ベルトラン・マルティがここを本拠とし、「教会の頭」と呼ばれる場所になった。城の下の斜面には小屋が並び、完徳者と、城を守る騎士や兵とその家族が暮らした。各地の信者が説教や救慰礼を求めて山を登ってきた。
1242年5月、モンセギュールの騎士たちが山を下り、アヴィニョネの町に泊まっていた異端審問官の一行を襲って、審問官二人と随員を斧で殺した。この事件が、城を見逃してきた王権と教会に決断させた。翌1243年5月、カルカッソンヌの王の代官ユーグ・デ・ザルシが数千の兵で山を囲んだ。

山はあまりに険しく、囲みは長いあいだ完全にはならなかった。夜には信者が物資を運びこみ、伝令が出入りしたという。冬になっても城は落ちなかった。転機は1243年の暮れに来た。山岳の戦いに慣れたバスク人の傭兵が夜のうちに東の尾根の岩場をよじ登り、城の東の見張りの塔を奪った。そこに投石機を組み上げると、城そのものが射程に入った。1244年2月には外側の防御が破られ、守備隊は限界に達した。
3月の初め、降伏の交渉がまとまった。条件は寛大だった。守備兵は過去の罪を許され、城の中の人々には15日の猶予が与えられた。完徳者は、信仰を捨てれば命を許され、捨てなければ火刑となる。猶予がなぜ与えられたのかは分かっておらず、カタリ派の祝いの日を迎えるためだったとする説もある。この15日のあいだに、守備兵や家族のうち20人ほどが新たに救慰礼を受けて完徳者となった。許される側から、焼かれる側へ自分から移ったのである。

1244年3月16日、城の下の斜面に柵が組まれ、中に薪が積まれた。信仰を捨てなかった完徳者たちは、自ら進んで、あるいは引き立てられて、その中に入った。人数は200人あまりとされ、司教マルティ、城主の妻コルバ、その母、病で運ばれた娘エスクラルモンドもいたと記録にある。一つの大きな火で焼かれたと伝えられる。その場所はいま「火刑者の野」と呼ばれている。
降伏の前後には、いくつかの話が残る。審問の記録によれば、火刑の前夜、数人の完徳者が縄で崖を降りて城を抜け出した。それより前の冬には、教会の金品がひそかに運び出されていたという。この「宝」は、生き残った完徳者たちの暮らしを支える実際の金銭だったと考えられている。ところが19世紀以降、これを聖杯と結びつける話が広まり、1930年代にはドイツの作家オットー・ラーンがモンセギュールを訪ねて聖杯を探し、本を書いた。何も見つからなかった。
モンセギュールの陥落で、カタリ派は組織の中心を失った。1255年にはケリビュスの城も落ちた。信仰はその後も山村に細々と残り、異端審問の記録にその暮らしが詳しく書きとめられたが(モンタイユーの異端審問)、1321年、最後の完徳者とされるギヨーム・ベリバストが火刑になり、カタリ派は歴史から姿を消した。
いま山の上に残る城壁は、陥落のあとにフランス王の守備隊が築き直したもので、カタリ派の時代の城はほとんど残っていない。火刑の野には、1960年に建てられた石碑が立っている。なお近年の研究者の中には、カタリ派が一つのまとまった教会として存在したという像そのものが、異端審問の側の分類によって作られた面があると指摘する人もおり、その実像はいまも議論が続いている。