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Event / できごと

モンセギュールの陥落

Fall of Montségur
AD1244年3月16日
重要度 4

概要

ピレネーの麓の岩山の城。カタリ派の最後の砦。500人。10か月の包囲。降伏。棄教すれば助ける、と言われて、完徳者200人以上が拒んで、城の下の野原の柵の中で焼かれた。「火刑の野」。伝説では、宝(聖杯、と言う人がいる)を4人が夜に持ち出した。カタリ派は1321年、最後の完徳者が焼かれて、消えた。

場所

モンセギュール
42.88°N 1.83°E · フランス

本文

カタリ派(「清浄な人」。自分たちは「善き人(ボン・オム)」と呼んだ)。10世紀のブルガリアのボゴミル派から、バルカン、北イタリア、ラインラント、そしてラングドックへ。二元論。善の神(霊)と悪の神(物質、この世の創造主)。魂は天使で、悪魔に体に閉じ込められた。逃れる道は「コンソラメントゥム(慰めの秘蹟)」。按手。それを受けた「完徳者(ペルフェクティ)」は、肉と卵と乳を食べず、性を断ち、嘘をつかず、殺さず、宣誓せず、歩いて説教した。男も女も。信者は死ぬ前にコンソラメントゥムを受けた。カトリックの教会は「悪魔の教会」で、十字架は拷問の道具、洗礼は物質で無意味。

ラングドックの貴族(トゥールーズ伯、フォワ伯)と町が守った。1209年、アルビジョワ十字軍。1229年、パリ条約でトゥールーズ伯が降伏。1233年から、ドミニコ会の異端審問。完徳者は山へ隠れた。

モンセギュール。アリエージュ、ピレネーの麓、標高1207メートルの岩山の頂。1204年、カタリ派の求めでレーモン・ド・ペレイユが建て直した。1232年から、カタリ派の司教ギヨーム・ベルトラン・マルティが本部にした。「教会の頭と座」。完徳者200人、守備兵と家族300人。斜面に小屋。

1242年5月28日、アヴィニョネで、モンセギュールの騎士たちが異端審問官(ドミニコ会士ギヨーム・アルノーとフランシスコ会士エティエンヌ・ド・サン・ティベリ)と随員11人を斧で殺した。フランス王ルイ9世が、城を取れと命じた。

1243年5月、カルカッソンヌのセネシャル、ユーグ・デ・ザルシが囲んだ。山は険しく、囲みは完全でなかった。冬。12月、ガスコーニュのバスク人の傭兵が、東の尾根の岩場を夜に登って砦を取った。投石機を組み立てて、城を撃った。1244年2月、外壁が落ちた。3月1日、降伏の交渉。条件は寛大だった。兵と家族は赦される。城の中の全員に15日の猶予(なぜかは分からない。カタリ派の祝祭のためか)。完徳者は、棄教すれば赦される。棄教しなければ、火。

15日。守備兵の何人か(20人ほど)が、その間にコンソラメントゥムを受けた。完徳者になった。死ぬために。

3月16日。城の下、南西の斜面。柵で囲った中に薪。完徳者たちは梯子で登らされ、あるいは自分で入った。200人以上。司教マルティ、ペレイユの妻コルバ、その母、病気で運ばれた娘エスクラルモンド。一つの火。いま、その場所は「火刑の野(プラト・デルス・クレマッツ)」と呼ばれる。

伝説。降伏の前夜、4人の完徳者が縄で崖を降りて「宝」を持って逃げた。教会の金(実際にあった。それで生き残った完徳者が生きた)か、書物か、聖杯か。19世紀のオカルティストが「聖杯」と言い、1930年代にオットー・ラーンが探した(後にSSに入って、1939年に山で死んだ)。何も見つからなかった。

カタリ派の終わり。1255年、ケリビュス。1321年、最後の完徳者ギヨーム・ベリバストが焼かれた(モンタイユーの人々の司祭。ジャック・フルニエの審問記録に残った)。

いまのモンセギュールの城壁は、1244年のあとにフランス王の守備隊が建てたもの。カタリ派の城は残っていない。野に、1960年の石碑。「1244年3月16日、205人の……純粋なキリスト教の愛の殉教者に」。

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