人物

ピピン3世(小ピピン)

Pepin the Short
AD714年 – AD768年(享年54・推定)
フランク王国重要度 3

概要

宮宰として、教皇に「力のない王と力のある者、どちらが王であるべきか」と問い、答えを得て、最後のメロヴィング王を修道院に送った。イタリアに二度遠征してランゴバルドから土地を取り、教皇に寄進した。

所属

フランク王国

関わったできごと(1)

ピピンの寄進AD756年 · 王

本文

ピピン3世は、714年ごろ、フランク王国の宮宰カール・マルテルの次男として生まれた。「小ピピン」「短身王」という呼び名は後の時代に付いたもので、本当に背が低かったのかどうかは分からない。少年の頃はパリ近郊のサン・ドニ修道院で教育を受けた。父カールは、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力の北上を食い止めた武人で、名目上の王を差し置いてフランク王国を実際に支配していた。

トゥール・ポワティエ間の戦いに関わる図版:Steuben - Bataille de Poitiers
トゥール・ポワティエ間の戦いWikimedia Commons Charles de Steuben · Public domain

フランク王国の王位は、クローヴィス1世以来、メロヴィング家が受け継いできた。だが7世紀の後半から、王家の力は衰え、政治の実権は宮廷の長である宮宰の手に移っていた。カールの伝記を書いたアインハルトは、メロヴィング家の最後の王たちについて、長い髪とひげを伸ばして玉座に座り、宮宰から与えられた言葉を使者に伝えるだけで、どこへ行くにも農夫のように牛の引く車に乗っていった、と描いている。王家を見下して描くことで、後の王家の正しさを示そうとした書き方ではあるが、王に実権がなかったのは確かである。カール・マルテルは晩年、王が死んでも次の王を立てず、空位のまま国を治めていた。

741年に父が死ぬと、ピピンと兄カールマンは王国を分けて受け継いだ。二人は743年、反乱を抑えるために、メロヴィング家の一人をキルデリク3世として王位に就けた。747年、兄カールマンは突然世を捨てて修道士になり、イタリアのモンテ・カッシーノ修道院に入った。ピピンは一人で王国の実権を握った。

小ピピン(ピピン3世)
小ピピン(ピピン3世)Wikimedia Commons Louis-Félix Amiel · Public domain

残る問題は、王の名だった。実権を持つ者が、王の血筋でないという理由で王になれないのはおかしくないか。750年ごろ、ピピンはローマの教皇ザカリアスのもとへ使者を送り、こう尋ねさせた。王の名を持ちながら力を持たない者が王であることは、良いことか。教皇は、力を持つ者が王と呼ばれるほうがよい、秩序が乱れないために、と答えたと、フランク王国の年代記は伝える。この記録は事が済んだ後にピピンの家の側で書かれたもので、やり取りの細部まで信じてよいかには疑問もあるが、ピピンが教皇の権威を借りて王位に就いたことは確かである。

751年、ソワソンでフランクの貴族たちはピピンを王に選んだ。最後のメロヴィング王キルデリク3世は、王の力の象徴だった長い髪を切られ、修道院に送られた。ピピンは司教たちから聖なる油を注がれて王になった。旧約聖書の王たちがそうされたように、神に選ばれた王であることを示す儀式である。フランク王国でこれが行われたのは初めてだった。このとき油を注いだのが、ドイツへの布教で知られる大司教ボニファティウスだったかどうかは、史料によって食い違いがある。

王になったピピンと教皇とは、すぐに互いを必要とした。北イタリアのランゴバルド王国(ランゴバルドのイタリア侵入)の王アイストゥルフは、751年にビザンツ帝国のイタリアの拠点ラヴェンナを奪い、ローマにまで迫っていた。ローマを守るべきビザンツ皇帝は、東方の戦いと聖像破壊論争で手一杯で、助けを送れない。753年、教皇ステファヌス2世は、冬のアルプスを越えてフランクの地へやって来た。教皇がアルプスを越えるのは初めてのことだった。

ランゴバルドのイタリア侵入に関わる図版:Italien zur Langobardenzeit
ランゴバルドのイタリア侵入Wikimedia Commons Johann Gustav Droysen · Public domain

754年1月、ポンティオンの王宮で、ピピンは教皇を迎えた。ローマ側の記録によれば、王は馬から降りて教皇の馬の手綱を取り、従者のように歩いたという。フランク側の記録では、逆に教皇がひざまずいて助けを求めたことになっている。同じ年の7月、サン・ドニ修道院で、教皇は自らピピンと二人の息子カールとカールマンに油を注ぎ、彼らに「ローマ人の保護者」の称号を与えた。そしてフランク人が今後、この家以外から王を選ぶことを禁じた。

ピピンは約束を果たした。754年と756年の二度にわたってアルプスを越え、ランゴバルドの都パヴィアを囲んで、アイストゥルフを屈服させた。取り上げたラヴェンナからローマに至るイタリア中部の土地を、ピピンはビザンツ皇帝に返さず、教皇に与えた(ピピンの寄進)。皇帝の使者が、ラヴェンナは皇帝の土地だと抗議すると、ピピンは、自分は聖ペテロのために戦ったのであり、どれほどの財宝を積まれても聖ペテロから土地を取り上げはしない、と答えたと伝えられる。これが教皇領の始まりで、教皇は宗教の指導者であると同時に、イタリア中部を治める君主となった。教皇領は、形を変えながら1870年まで続く。

ピピンの寄進に関わる図版:La donacion de Pipino el Breve al Papa Esteban II
ピピンの寄進Wikimedia Commons English: A fresco painter from the school of Giovan Battista Ricci (c. 1537–1627); by the time the fresco was created, t · Public domain

ピピンの王としての治世は、戦いの連続だった。759年には、南フランスの地中海沿岸の町ナルボンヌをイスラーム勢力から奪い返した。760年からは、フランク王国から半ば独立していた南西部のアキテーヌに毎年のように遠征し、8年にわたる戦いの末、768年にアキテーヌ公ワイファルを滅ぼした。ピピンはまた、教会の改革を後押しし、ローマ式の典礼をフランクの教会に取り入れ、通貨の制度も整えた。

アキテーヌからの帰り道、ピピンは病に倒れ、768年9月、少年時代を過ごしたサン・ドニで亡くなった。54歳ほどだった。父の罪を償うため、自らの遺言で教会の入口にうつ伏せに葬られた、という話が後世の修道院に伝わっているが、確かなことは分からない。王国は、フランクの慣習に従って二人の息子に分けられた。弟カールマンは3年後に若くして死に、兄カール、のちのカール大帝が王国を一人で受け継いだ。

『帝国年代記』に描かれるピピン(コーパス・クリスティ・カレッジ写本)
『帝国年代記』に描かれるピピン(コーパス・クリスティ・カレッジ写本)Wikimedia Commons from the Middle Ages, unknown · Public domain

ピピンの治世は、父の武勲と息子の栄光の間に挟まれて、目立たない。だが、教皇の権威によって血筋のない者が王になり、その見返りに王が教皇の土地を守り、与えるという関係を作ったのはピピンだった。王の力は神から教会を通じて与えられるという考え方と、教皇が世俗の君主として土地を持つという仕組みは、どちらもこのときに始まった。それはやがて、800年のカールの皇帝戴冠(カール大帝の戴冠)へとつながり、中世ヨーロッパを通じて続く、皇帝と教皇の協力と対立の長い歴史の出発点になった。

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