モンタイユーの異端審問
概要
ピレネーの村の住民が、カタリ派の疑いで一人ずつ尋問された。その調書に、羊飼いの恋愛も、隣人の噂も、死後の世界の考えも残った。中世の村の暮らしを内側から読める、ほとんど唯一の史料になる。
場所
42.81°N 1.99°E · フランス・アリエージュ県(ピレネー)
本文
13世紀の初め、南フランスには、カタリ派と呼ばれる人びとの信仰が広がっていた。世界は善の神と悪の神の二つの力でできていて、肉体と物質の世界は悪に属する、と考える。信者の中で厳しい禁欲を守る少数の「完徳者」が、死にゆく人に救いの儀式を授けた。ローマの教会はこれを異端とし、1209年にアルビジョア十字軍を起こして南フランスを攻めた。その後も異端審問が続き、14世紀に入るころ、カタリ派は表からほとんど姿を消していた。
ところがピレネーの山あいでは、まだ火が残っていた。1300年ごろ、ピエール・オーティエという元公証人の完徳者が兄弟とともに山の村々を回り、信仰を立て直そうとした。その中心の一つが、標高1300mほどの高原にある人口200人あまりの村、モンタイユーだった。1308年には、カルカソンヌの異端審問官が村の大人をほぼ全員捕らえるという事件も起きている。
1317年にパミエの司教になったジャック・フルニエは、自分の司教区に異端審問の法廷を開いた。1318年から1325年まで、彼は370日あまり法廷を開き、100人近い人びとを呼び出して、数百回の尋問を行った。そのうち約4分の1がモンタイユーの村人だった。
フルニエは、異常なほど几帳面な審問官だった。村人たちが土地の言葉オック語で話した供述を、書記がその場で書き取り、ラテン語に訳して清書し、本人に読み聞かせて確かめさせた。一人に何度も尋問し、食い違いを突き、同じ出来事を別の人の口から確かめた。のちに彼は教皇ベネディクトゥス12世としてアヴィニョンの教皇庁に入り(教皇のアヴィニョン捕囚)、記録は教皇の書庫に持ち込まれて、いまはヴァチカン図書館にある。
異端を探すには、日常を知る必要がある。誰の家に誰が泊まったか。食事の席で誰が何を言ったか。だから調書には、異端の教えだけでなく、村の暮らしがまるごと入っている。羊をどの峠へ追い、冬はスペインのどの牧地で過ごしたか。誰が誰と寝て、村がそれをどう噂したか。死んだ人の魂はどこへ行くと思っているか。家の中で火のそばに座り、女たちが互いの髪のしらみを取りながら交わした話まで記されている。
調書の中でもとくに目立つのが、村の主任司祭ピエール・クレルグだった。ローマの教会の司祭でありながらカタリ派と通じ、村の有力な一族の当主として権力を握り、多くの女性と関係を持っていた。その一人が領主の未亡人ベアトリス・ド・プラニソルで、彼女は自分の恋と信仰の揺れを審問官の前で長々と語っている。クレルグは異端審問所と村人のあいだに立って、敵を密告させる立場にもあった。村の中の家どうしの争いと、信仰の対立とが、絡み合っていた。
羊飼いのピエール・モーリは、ピレネーを越えてカタルーニャの牧地まで羊を追う暮らしの中で、異端の信仰を保ち続けた。財産を持たず、行く先々で仲間に迎えられる生き方を、彼は自分で選んだと語っている。最後の完徳者ギヨーム・ベリバストは、カタルーニャに逃れていたが、仲間を装った密告者に誘い出されて捕らえられ、1321年に火刑に処された。
フルニエの審問で火刑になったのは5人ほどとされる。ほかの多くは投獄されたり、異端の印である黄色い十字を服に縫いつけて暮らすよう命じられたりした。この審問の後、カタリ派の信仰は南フランスから消えた。
それから600年あまり後、フランスの歴史家ル・ロワ・ラデュリが、この調書を読み込んで一冊の本にした。1975年に出た『モンタイユー』は、専門書でありながら広く読まれた(物語「『モンタイユー』で読む中世の村」)。中世の農民は、ほとんどの場合、文字を残さず、税の帳簿や領主の記録の中に名前が出てくるだけの存在だった。ここでは、彼らが自分の言葉で、恋や信仰や死について語っている。
もちろん、これは審問の場での言葉で、恐れや計算、言い逃れも混ざっている。書記がラテン語に訳すときに言い回しが変わったところもあるだろう。それを差し引いても、中世の一つの村を外からではなく内側から書ける史料は、ほかにほとんど無い。