ポエニ戦争

概要
地中海の覇権をめぐる、ローマとカルタゴの120年。三度戦い、三度目でカルタゴは消えた。
この物語について
負けた側の記録は、たいてい残らない。カルタゴは三度戦い、三度目で街ごと消された。何が、そこまでさせたのか。
カルタゴは、いまのチュニジアにフェニキア人の都市ティルスが置いた植民市として始まった。伝承では建設は紀元前814年とされる。海上交易で富み、前3世紀には北アフリカの沿岸からイベリア半島南部、サルディニア、シキリア西部までを押さえる地中海西部の大国になっていた。一方のローマは、前280年に南イタリアに上陸したエペイロスの王ピュロスをなんとか退け、イタリア半島をまとめたばかりの陸の国だった。二つの国は長く条約を結ぶ間柄で、互いを敵とは見ていなかった。
火種はシキリア北東端の町メッサナにあった。この町を占拠していた傭兵団が、シュラクサイに攻められてカルタゴとローマの両方に助けを求めた。前264年、ローマは海峡を渡ることを決め、第一次ポエニ戦争が始まる。ポリュビオスの伝えるところでは、ローマは浜に乗り上げたカルタゴの軍船を手本に、短い期間で百隻を超える艦隊を造った。

海を知らないローマが取った手は、海戦を陸戦に変えることだった。船首に「カラス」と呼ばれる鉤付きの渡り板を付け、敵船に打ち下ろして兵を乗り込ませる。前260年のミュラエの海戦で執政官ドゥイリウスはこれでカルタゴ艦隊を破り、ローマは初めて海で勝った。前256年のエクノモス岬沖の海戦は、両軍あわせて数百隻が出た古代最大級の海戦とされる。
勝ちに乗ったローマは、執政官レグルスをアフリカへ上陸させた。だがレグルスは過大な講和条件を突きつけて交渉を潰し、翌年、スパルタ人傭兵隊長の指揮するカルタゴ軍に敗れて捕らえられた。捕虜のまま講和の使者としてローマへ送られ、元老院で講和に反対し、約束どおりカルタゴへ戻って処刑された、という話がのちに語られる。ローマ人が子どもに聞かせて育った美談だが、史実かどうかは疑わしい。

その後の戦いは嵐と消耗の連続だった。ローマは艦隊を何度も嵐で失い、前249年のドレパナでは、出撃前の占いで聖なる鶏が餌を食べないと聞いた執政官プルケルが「食べないなら飲め」と鶏を海に投げ込み、そして大敗したと伝えられる。国庫が尽きたとき、市民が私財を出し合って二百隻の艦隊を造り、前241年、アエガテス諸島沖でカルタゴの補給艦隊を沈めた。カルタゴは講和に応じ、シキリアを明け渡して巨額の賠償を払った。23年の戦争で、シキリアはローマ最初の属州になった。
敗れたカルタゴは、給料を払えなくなった傭兵の反乱に苦しんだ。三年あまり続いたこの傭兵戦争の隙に、ローマはサルディニアとコルシカまで奪い取る。シキリアで不敗のまま講和に従わされた将軍ハミルカル・バルカは、失ったものをイベリア半島で取り返そうとした。銀山を押さえ、現地の兵を鍛えた。ハミルカルは出発の前、九歳の息子ハンニバルを祭壇の前に立たせ、ローマの友にならないと誓わせたと伝えられる。

前221年、二十代半ばで軍を継いだハンニバル・バルカは、前219年、ローマと結んでいた町サグントゥムを八か月かけて攻め落とした。ローマはこれを開戦の理由にした。ローマが海を押さえている以上、ハンニバルは陸を行くしかない。前218年、彼は歩兵と騎兵、そして象を連れてピレネーを越え、ローヌ川を渡り、秋のアルプスを越えた。北イタリアに降りたとき、兵は出発時から大きく減っていたとされる。
それでもハンニバルは勝ち続けた。前218年の冬、トレビア川でローマ軍を誘い出して破り、前217年にはトラシメヌス湖の霧の中で待ち伏せ、執政官フラミニウスを討った。ローマは独裁官ファビウスを立て、会戦を避けて相手の補給を削る持久戦に切り替える。「ぐずぐず屋」とあだ名されたこのやり方に、市民は焦れた。

前216年8月、ローマは八個軍団を中心とする大軍をカンナエに送った。ハンニバルは中央をわざと押させ、両翼から騎兵と精兵で包み込んだ。ローマ側の戦死者は、ポリュビオスでは7万、リウィウスでは5万近いとされ、執政官パウルスも討たれた。一日の戦闘としては史上でも最悪級の損害である。南イタリアのカプアなどが離反し、シュラクサイもカルタゴに付いた。
それでもローマは講和を求めなかった。中部イタリアの同盟市の多くも離れなかった。ローマはファビウスの持久戦に戻り、ハンニバルを半島に置いたまま周りの戦線から崩していく。マルケルスはシュラクサイを二年にわたって攻め、前212年に陥としたが、そのとき学者アルキメデスが兵に殺された。前207年には、兄と同じ道でアルプスを越えてきたハスドルバルがメタウルス川で敗死し、その首はハンニバルの陣に投げ込まれたとリウィウスは書いている。

戦局を変えたのは、若い大スキピオだった。父と伯父をイベリアで失った彼は、前209年にカルタゴの拠点カルタゴ・ノウァを奇襲で奪い、前206年のイリパでカルタゴ軍をイベリアから追い出した。ハンニバルの包囲の戦い方を、ローマの側が身につけていた。前204年、スキピオはアフリカに上陸し、ヌミディアの王子マシニッサの騎兵を味方に付ける。本国を突かれたカルタゴは、十五年あまりイタリアにいたハンニバルを呼び戻した。
前202年、ザマで両軍はぶつかった。ハンニバルは象を先頭に立てたが、スキピオは隊列の間に通り道を空けて象をやり過ごし、最後はマシニッサの騎兵がカルタゴ軍の背後を突いた。翌年の講和で、カルタゴは艦隊のほとんどを差し出し、多額の賠償を50年かけて払い、ローマの許しなく戦争をしないと約束させられた。

ハンニバルはその後、カルタゴの政治を立て直そうとしたが、政敵にローマと通じていると訴えられて亡命する。東の大王アンティオコス3世のもとに身を寄せたが、王は前190年のマグネシアでローマに大敗した。ローマはこの間、マケドニアもキュノスケファライで破り、地中海の東でも主になっていた。追い詰められたハンニバルは、前183年ごろ、小アジアのビテュニアで毒を仰いで死んだ。
賠償を払い終えたカルタゴは、交易で再び富を取り戻していった。ローマにはそれを恐れる者がいた。使節としてカルタゴを見た大カトーは、元老院でどんな議題を論じても最後に「カルタゴは滅ぼされるべきである」と付け加えたと伝えられる。カルタゴの領土は、隣のマシニッサに少しずつ削り取られていた。前150年、ついにカルタゴが武器を取って反撃すると、ローマはそれを条約違反と見なした。
カルタゴ滅亡は、戦争というより処刑に近い。カルタゴは武器を差し出し、人質も出したが、最後に「海から離れた内陸へ街を移せ」と命じられて拒んだ。前149年から三年近い籠城の末、前146年、小スキピオの軍が城内に入り、六日間の市街戦のあとで街は焼かれた。生き残った約5万人は奴隷に売られたとされる。ローマが土地に塩を撒いたという話は、近代になって付け加えられたもので、古代の史料には見えない。

燃える街を見下ろしながら、小スキピオは涙を流し、いつかローマにも同じ日が来るだろうとホメロスの詩を口にした、と傍らにいたポリュビオスは書き残している。同じ年、ギリシアではコリントスが破壊され、ローマは地中海のほぼ全域を自分の海にした。
カルタゴ側の記録はほとんど残っていない。私たちが知るこの戦争は、ローマ側に立ったポリュビオスと、ローマの歴史家リウィウスの目を通したものである。それでも、負けた側の将軍の名がこれほど語り継がれた例は少ない。カンナエの包囲は今も軍学校で教えられ、ハンニバルは、強すぎる敵がかえって国を鍛えるという物語の主役になった。そして勝ったローマもまた、外に敵がいなくなったこの日から、内側で壊れていくことになる。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(47)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- カルタゴ国BC814年(伝承) – BC146年フェニキア人が築いた西地中海の海洋国家。三度のポエニ戦争でローマに敗れ、市は破壊された。
- カルタゴの建設できごとBC814年(伝承)ティルスから来たフェニキア人が北アフリカに築いた。母市が衰えたあとも西地中海の交易を握り、600年後にローマと三度戦うことになる。カルタゴ
- ローマ国紀元前8世紀(伝承ではBC753年) – (続く)ラティウムの一都市から地中海全域を支配する帝国へ。共和政のまま版図を広げ、内戦を経て帝政に移った。
- ピュロス人物BC319年 – BC272年ハンニバルが最高の将軍と呼んだアレクサンドロスの遠縁で、その再来と言われた。イタリアでローマに二度勝って兵を失い、シチリアでカルタゴと戦い、帰ってマケドニアを取り、アルゴスの市街戦で老婆の投げた瓦で死んだ。ハンニバルは「最高の将軍」と呼んだ。
- ヘラクレアの戦いできごとBC280年ピュロスの勝利エピロス王ピュロスが南イタリアのギリシア都市に呼ばれ、象20頭でローマ軍を破った。ローマ兵は象を初めて見た。勝ったが失った兵が戻らず、翌年も勝って「もう一度こう勝てば、私は滅びる」。ピュロスの勝利。ヘラクレア
- ファビウス・マクシムス人物BC280年頃 – BC203年戦わないことで戦った5度執政官、2度独裁官。ハンニバルと戦わないことで戦った。「クンクタトル」。あとで「一人の男がぐずぐずして国を救った」と詩に歌われた。スキピオのアフリカ遠征に最後まで反対し、ザマの前年に死んだ。
- ハミルカル・バルカ人物BC275年頃 – BC228年冬息子に誓わせた第一次ポエニ戦争の最後の6年、シチリアの山で負けなかった。傭兵の反乱を鎮め、スペインへ渡って新しいカルタゴを作った。9歳の息子ハンニバルを祭壇の前で誓わせて、連れて行った。川で溺れて死んだ。「バルカ」は雷。
- マルケルス人物BC270年 – BC208年ローマの剣ガリアの王を一騎打ちで倒し、ノラでハンニバルに初めて勝ち、シラクサを2年囲んでアルキメデスを死なせた。「ローマの剣」。5度執政官。偵察に出て伏兵に殺され、ハンニバルは遺灰を息子に送った。
- 第一次ポエニ戦争できごとBC264年23年に及ぶ海の戦い。ローマは艦隊を一から作り、シキリアを最初の属州にした。
- アグリゲントゥムの攻囲できごとBC262年拾った船を真似た第一次ポエニ戦争の最初の大きな戦い。ローマが7か月囲み、カルタゴの援軍を破って街を取り、2万5000人を奴隷に売った。シチリアの街々はそれを見てローマを恐れた。ローマは「海で勝たなければ」と知って、翌年、拾ったカルタゴの船を真似て100隻を造った。アグリゲントゥム
- ミュラエの海戦できごとBC260年海を知らないローマの最初の海戦海を知らないローマが、座礁したカルタゴ船を写して100隻を、木を切ってから60日で作ったと伝えられ、「カラス」と呼ぶ橋を敵船に落として陸戦に変えた。最初の海戦で勝った。海の国と陸の国の戦争が、ここから海でも続く。ミュラエ
- レグルスのアフリカ遠征できごとBC256年傲慢な講和ローマがアフリカに上陸し、カルタゴの手前まで来て、過酷な講和を突きつけた。カルタゴはスパルタの傭兵隊長を雇って象で反撃し、レグルスを捕えた。捕虜交換の使者としてローマに送られ、講和に反対して自分から戻り、殺されたと伝わる。チュニス
- エクノモス岬の海戦できごとBC256年古代最大の海戦ローマ330隻、カルタゴ350隻。古代で最大の海戦。ローマはコルウス(渡り板)で敵の船に歩兵を送り込んだ。勝って、レグルスがアフリカに渡り、翌年スパルタの傭兵隊長クサンティッポスに負けて捕虜になった。海で勝ち、陸で負けた。エクノモス岬

- レグルス人物? – BC250年頃ローマ人がこれを信じて育った執政官としてアフリカに上陸し、勝って、傲慢な講和を求めて、負けて捕虜になった。講和の使者としてローマに帰り、元老院に講和を拒めと言い、誓い通りカルタゴへ戻って拷問で死んだ、とローマは伝えた。史実かは怪しいが、ローマ人はこれを信じて育った。
- ドレパナの海戦できごとBC249年食べないなら飲め執政官クラウディウス・プルケルが出撃の前に鶏で占い、鶏が餌を食べないと「食べないなら飲め」と海に投げた。ローマの唯一の海での大敗。93隻を失った。ローマは6年、艦隊を持てなかった。神々への不敬の話として、ずっと語られた。ドレパナ(トラーパニ)
- ハンニバル・バルカ人物BC247年 – BC183年(一説にBC181年)カルタゴの将軍。アルプスを越えてイタリアに侵入し、カンナエでローマ軍を殲滅した。
- ハスドルバル・バルカ人物BC245年頃 – BC207年兄と同じ道でアルプスをハンニバルの弟。兄がイタリアへ行ったあと10年スペインを守り、スキピオに敗れ、兄と同じ道でアルプスを越えた。メタウルスで負け、敵陣に突っ込んで死んだ。首はハンニバルの陣に投げ込まれた。
- 傭兵戦争できごとBC241年サランボー第一次ポエニ戦争の給料をもらえない傭兵2万人が、カルタゴを囲んだ。3年。ハミルカルが鎮めた。フロベールの『サランボー』の話。その間にローマがサルデーニャを取った。ハミルカルは息子に、ローマを憎む誓いをさせた。カルタゴ
- アンティオコス3世(大王)人物BC241年 – BC187年ハンニバルを客にした大王18歳で継いだ帝国をインドまで回復して「大王」を名乗り、ハンニバルを客にし、ギリシアに渡ってローマとぶつかった。テルモピュライで負け、マグネシアで負け、賠償金のために神殿を略奪して殺された。
- アエガテス諸島の海戦できごとBC241年3月10日市民が自分の金で200隻国庫が空で、富裕な市民が自分の金で200隻を造った。ルタティウス・カトゥルスがシチリアの西で、荷を積んで重いカルタゴの補給艦隊を沈めた。23年の戦争が終わった。シチリアはローマ最初の属州。海底から発見された衝角が2010年代に次々と上がっている。アエガテス諸島
- マシニッサ人物BC238年頃 – BC148年90歳で馬に乗ったカルタゴ側でスペインを戦い、スキピオに乗り換え、ザマで騎兵を率いた。ヌミディアの王になり、50年、カルタゴの土地を削り続け、90歳で馬に乗り、その挑発が第三次ポエニ戦争になった。
- 大スキピオ人物BC236年 – BC183年ザマの戦いでハンニバルを破り、第二次ポエニ戦争を終わらせた。
- 大カトー人物BC234年 – BC149年三度目を引き起こした「カルタゴは滅ぼされるべきである」と説き続け、第三次ポエニ戦争を導いた政治家。
- フラミニヌス人物BC229年 – BC174年ギリシアの自由30歳の執政官がギリシア語を話し、マケドニア王を破り、イストミア祭で「ギリシアは自由」と告げさせた。ギリシア人は神のように祀り、20年後には彼の孫の世代に属州にされた。ハンニバルを追ってビテュニアまで行き、死なせた。
- サグントゥム攻囲できごとBC219年二度目の口実になったハンニバルがローマの同盟市サグントゥムを攻略し、第二次ポエニ戦争の引き金となった。サグントゥム
- ハンニバルのアルプス越えできごとBC218年秋象を連れてアルプスを越え、誰も予期しなかった北からイタリアに入った。越えた峠は今も特定されていない。アルプスの峠(位置は特定されていない)
- トレビアの戦いできごとBC218年12月イタリア侵入後の最初の大勝。渡河で冷えたローマ軍を伏兵で包囲した。トレビア川(位置は特定されていない)

- 第二次ポエニ戦争できごとBC218年ハンニバルのイタリア侵入からザマの敗北まで、17年に及んだローマとカルタゴの戦争。
- トラシメヌス湖の戦いできごとBC217年6月21日湖畔の隘路に誘い込んで行軍中のローマ軍を殲滅した。史上最大級の待ち伏せ。トラシメヌス湖

- ファビウスの持久戦できごとBC217年ぐずぐず屋トラシメヌスのあと、独裁官ファビウスはハンニバルと戦わず、影のように追って、補給を断った。「クンクタトル(ぐずぐず屋)」と罵られ、任期が終わるとローマは会戦に出て、カンナエで負けた。あとで「ぐずぐず」が国を救ったと言われる。ローマ

- カンナエの戦いできごとBC216年8月2日中央をあえて後退させる両翼包囲でローマ軍を殲滅。ローマ史上最悪の敗北とされ、以後ローマは会戦を避ける持久戦略へ転じた。カンナエ

- シュラクサイ攻囲とアルキメデスの死できごとBC212年アルキメデスが死んだアルキメデスの仕掛けが2年ローマ軍を退けたが、陥落時に本人は兵に殺された。シュラクサイ
- ペルセウス人物BC212年頃 – BC166年マケドニア最後の王。ピュドナでローマに敗れ、王国は解体された。
- メタウルス川の戦いできごとBC207年弟の首ハンニバルの弟ハスドルバルが援軍を率いてアルプスを越えた。手紙がローマに捕えられ、二人の執政官が合流して弟を破った。ハンニバルは弟の首を陣に投げ込まれて、それを知った。「カルタゴの運命が決まった」。メタウルス川
- イリパの戦いできごとBC206年ハンニバルの戦い方を敵が覚えたスキピオがスペインでカルタゴの主力を破り、スペインからカルタゴが消えた。前日まで弱い兵を中央に置いて見せ、当日に入れ替えた。ハンニバルの戦い方を、ハンニバルの敵が覚えた。イリパ
- ザマの戦いできごとBC202年スキピオがハンニバルを破り、第二次ポエニ戦争を決した。戦場の正確な位置は今も特定されていない。ザマ(位置は特定されていない)
- カルタゴの降伏できごとBC201年艦隊と属領を失い、ローマの許可なく戦争できない条件で講和。カルタゴは地中海の強国ではなくなった。カルタゴ
- ポリュビオス人物BC200年頃 – BC118年頃この戦争の同時代の記録者ギリシア人の歴史家。ポエニ戦争の同時代史料『歴史』を書いた。
- キュノスケファライの戦いできごとBC197年ファランクスが崩れたローマの軍団が、マケドニアのファランクスを丘の上で破った。長槍の密集隊は横から崩れた。翌年フラミニヌスはコリントスで「ギリシアの自由」を宣言し、歓声で鳥が落ちたと伝わる。自由は、ローマの許す限りだった。キュノスケファライ

- マグネシアの戦いできごとBC190年東地中海の主が決まったセレウコス朝の大王アンティオコス3世が、ハンニバルを迎えていたことをローマは許さなかった。小アジアで7万の軍が破れ、アンティオコスはタウルス山脈の向こうへ引き、賠償金1万5000タラントを払った。東地中海の主が決まった。マグネシア

- 小スキピオ人物BC185年(BC184年説あり) – BC129年カルタゴを滅ぼし、ヌマンティアを陥落させた。
- ハンニバルの死できごとBC183年(一説にBC181年)亡命先のビテュニアでローマの追及を受け、服毒して死んだ。没年には諸説ある。
- ピュドナの戦いできごとBC168年6月22日ローマがマケドニア王国を滅ぼした。ファランクスがレギオンに敗れ、ヘレニズム世界はローマの手に落ちていく。ピュドナ
- カルタゴ滅亡できごとBC146年第三次ポエニ戦争の末、市は破壊され住民は売られた。地中海西部にローマの敵はいなくなった。カルタゴ

- コリントス破壊できごとBC146年カルタゴ滅亡と同じ年にギリシアでも抵抗が潰え、ローマの地中海支配が確定した。コリントス
- ポリュビオス『歴史』できごとBC140年頃なぜローマが世界を制したのかを、人質として内側から見た者が分析した。ローマ
- ヌマンティア陥落できごとBC133年8か月の包囲の末に陥落し、ヒスパニアの組織的抵抗が終わった。ヌマンティア
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