ポリュビオス『歴史』
概要
なぜローマが世界を制したのかを、人質として内側から見た者が分析した。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(2)
ポリュビオスBC200年頃–BC118年頃 · 著者大カトーBC234年–BC149年 · 同時代人本文
ポリュビオスは、紀元前200年ごろ、ギリシアのペロポネソス半島の町メガロポリスに生まれた。父のリュコルタスは、諸都市をまとめるアカイア同盟の指導者の一人だった。若いころから政治と軍事の場に身を置き、同盟の騎兵隊長も務めている。歴史を書くには、実際に政治と戦争に携わった経験が欠かせない、というのがのちの彼の持論になる。
紀元前168年、ローマはピュドナの戦いでマケドニア王国を滅ぼした。その翌年、ローマは、戦争の間にローマへの協力が足りなかったと見たアカイア同盟の有力者1000人を、人質としてイタリアへ連れ去った。ポリュビオスもその一人だった。人質の多くはイタリアの各地の町に分けて留め置かれたが、ポリュビオスは、ピュドナの勝者アエミリウス・パウルスの家に迎えられ、その子の家庭教師のような役を務めた。その子が、のちの小スキピオ(小スキピオ)である。

二人は、年の差を越えて生涯の友となった。ポリュビオスは、ローマの名門の家の内側から、元老院の議論や、軍の動き、ローマ人の気風をつぶさに見ることができた。人質でありながら、ローマを最もよく知るギリシア人になったのである。
人質たちの抑留は十数年に及んだ。紀元前150年、ようやく帰国を許すかどうかが元老院で議論されたとき、大カトーは、我々には他にすることが無いかのように、老いぼれのギリシア人たちをどこの葬儀屋に埋めさせるかで一日を費やしている、と皮肉ったとプルタルコスは伝える。生きて帰れたのは300人ほどだった。ポリュビオスがさらに元老院にかつての名誉の回復を願い出ようとすると、カトーは笑って、それはオデュッセウスが帽子と帯を取りに、一つ目の巨人の洞窟へ戻るようなものだ、と言ったという。
その後もポリュビオスは小スキピオのそばにあった。紀元前146年、小スキピオが落としたカルタゴが燃えるのを、二人は並んで見ていた。小スキピオは涙を流し、いつか自分の国にも同じ日が来るだろう、とホメロスの詩句を口にしたと、ポリュビオス自身が書き残している(カルタゴ滅亡)。同じ年、故郷のギリシアではコリントスが破壊された(コリントス破壊)。ポリュビオスはその後、ローマとギリシアの諸都市の間に立って、戦後の処理に力を尽くした。

ポリュビオスが『歴史』で立てた問いは、はっきりしていた。どのようにして、またどのような国の仕組みによって、ローマはわずか53年足らずのうちに、人の住む世界のほとんどを支配下に置いたのか。53年とは、第二次ポエニ戦争の始まる紀元前220年ごろから、マケドニアが滅んだ紀元前167年までを指す。のちに彼は、叙述をカルタゴとコリントスが滅んだ紀元前146年まで延ばした。
全体は40巻に及んだが、完全な形で残っているのは最初の5巻だけで、残りは抜き書きや引用の断片で伝わっている。それでも、ハンニバルとの戦いの経過を、カンナエの戦いの布陣に至るまで詳しく伝える、最も重要な史料である。ポリュビオスは、自分で現地を歩いて確かめることを重んじた。ハンニバルの進んだ道筋を確かめるために、自らアルプスを越えたとも書いている(ハンニバルのアルプス越え)。

ローマが強かった理由として、ポリュビオスが第6巻で挙げたのが、国の仕組みである。執政官には王の力が、元老院には貴族の力が、民会には民衆の力が備わり、三つが互いに抑え合っている。一つの政体だけでは、王政は僭主政に、貴族政は寡頭政に、民主政は衆愚政に、と堕落して移り変わっていく。三つを混ぜて釣り合わせた国だからこそ、ローマは安定し、危機に強いのだ、と論じた。混合政体論と呼ばれる。
この分析は、2000年近く後まで読み継がれた。18世紀のフランスのモンテスキューは、権力を分けて互いに抑えさせるという考えを『法の精神』で展開した。アメリカの建国者たちも、ポリュビオスを読んでいた。ジョン・アダムズは、混合政体を論じた著作の中で彼を詳しく取り上げている。アメリカ合衆国憲法の制定の、大統領・上院・下院が互いに抑え合う仕組みには、こうした古典の議論が流れ込んでいる。

ポリュビオスは80歳を過ぎて、馬から落ちたのがもとで世を去ったと伝えられる。征服された側の人間が、征服した国の強さの秘密を内側から解き明かそうとした書物は、いまも読む者に、国の仕組みが国の運命を決めるという問いを投げかけている。