ヤシュチランのまぐさ石
概要
ウスマシンタ川の湾曲に建つマヤの都市。神殿の入口のまぐさ石に、王「盾ジャガー」と妃「シュック夫人」が彫られている。妃は棘のついた縄を舌に通し、血を紙に落として、香を焚いた煙の中から蛇が立ち上がり、その口から祖先の戦士が現れる。放血儀礼。王権は、痛みと血で、祖先とつながった。大英博物館にある。
場所
16.90°N -90.96°E · メキシコ・チアパス州
本文
いまのメキシコとグアテマラの国境を流れるウスマシンタ川は、ある所で大きく曲がり、内側に半島のような土地を抱き込んでいる。そこにマヤの都市ヤシュチランがあった。栄えたのは4世紀から9世紀の初めにかけての古典期(マヤ古典期)で、上流のピエドラス・ネグラスとは川の覇権を争い、遠くのティカルやカラクムル(カラクムルとティカルの戦争)とも戦いと婚姻で結びついていた。いまも道は通じておらず、遺跡へは川を舟で行く。
マヤの神殿は、入口の上に石の梁を渡した。これがまぐさ石である。ヤシュチランの王たちは、このまぐさ石の下の面や正面に、儀礼の場面と文字を彫らせた。その中でも、第23号建造物の入口を飾った3枚(第24、25、26号まぐさ石)は、マヤの浮き彫りの最高傑作の一つとされる。

主人公は二人いる。681年に即位し、742年に死ぬまで60年あまり国を治めた王イツァムナーフ・バラム3世(英語の文献では「盾ジャガー」)と、その妃イシュ・カバル・ショーク(「ショーク夫人」)である。第23号建造物は726年ごろに奉納され、碑文から、この妃のための建物だったことが分かっている。女性のために建物が一つ捧げられるのは、マヤでは珍しい。
第24号まぐさ石は、709年の夜の儀礼を描く。王が燃える松明を高く掲げて立ち、その前に妃がひざまずいて、とげをつけた縄を自分の舌に通して引いている。血は、足元の籠に入れた樹皮の紙に落ちる。妃は細かな織り模様の衣を着け、翡翠の飾りを身につけて、表情は静かである。

第25号では、血の染みた紙が焚かれ、煙の中から大きな蛇が身をくねらせて立ち上がる。蛇の口からは、槍と盾を持った戦士が上半身をのぞかせている。王家の祖先とも、王朝の守り神とも解釈され、妃はそれを下から見上げている。碑文の日付は、王の即位の681年を指している。第26号では、妃が王にジャガーの頭をかたどった兜を差し出し、王は戦いの支度をしている。こちらは724年の日付をもつ。
自分の体を傷つけて血を捧げる儀礼は、マヤの王族の大事な務めだった。男は性器を、女は舌を、エイのとげや黒曜石の刃で傷つけ、流れた血を紙に受けて焚いた。血と香の煙の中で、祖先や神々が姿を現すと考えられた。断食や失血による意識の変化が、その幻を見せたのだろうとみる研究者もいる。王の権威は、痛みと血によって、祖先とつながっていることを人々の前で示すことで支えられていた。

こうした場面が「神話」ではなく、日付のある「歴史」だと分かったのは20世紀の後半である。1960年、タチアナ・プロスクリアコフはピエドラス・ネグラスの石碑の日付が人の一生の長さで区切れることを示し、マヤの碑文が王たちの事績を記していると論じた。彼女は続いてヤシュチランの碑文を読み、盾ジャガーとその後継者の時代の出来事を並べてみせた。音を表す文字の読み方(マヤ文字の解読、ユーリー・クノロゾフ)が分かってくると、王や妃の名も読めるようになった。
碑文からは宮廷の事情もうかがえる。盾ジャガーが死んだあと、王位はすぐには継がれず、10年ほどのちの752年に、別の妃の子が即位した。この新しい王は、母の出自と自分の正しさを示す碑文を盛んに彫らせており、継承に争いがあったのではないかと考えられている。ヤシュチランの碑文は9世紀の初めに途絶え、都市はやがて密林に呑まれた(マヤ低地の崩壊)。

1882年、イギリスの探検家アルフレッド・モーズレーがこの遺跡を調べ、第24号と第25号を含む何枚かのまぐさ石を切り出してイギリスへ運んだ。2枚はいまロンドンの大英博物館にある。第26号は遺跡に残され、のちにメキシコ市の国立人類学博物館に移された。ヤシュチランの第23号建造物の入口は、いまは空いている。