人物

二葉亭四迷

Futabatei Shimei
AD1864年4月4日 – AD1909年5月10日(享年45)
日本重要度 4

概要

本名、長谷川辰之助。江戸生まれ。ロシアの南下に備えて軍人を志し、士官学校に三度落ちて、東京外国語学校ロシア語科へ。ツルゲーネフとゴンチャロフを原語で読んだ。1887年『浮雲』。話し言葉で小説を書く実験である。訳した『あひヾき』の自然描写が、日本の文章を変えたと言われる。文学に自信が持てず、10年以上筆を折って官庁と新聞社に勤めた。朝日新聞の特派員としてペテルブルクへ行き、結核を得て、帰国の船中、ベンガル湾で死んだ。

所属

日本

関わったできごと(1)

言文一致AD1887年 · 試みた

本文

二葉亭四迷の本名は長谷川辰之助という。1864年4月4日(元治元年2月28日)、江戸の市ヶ谷にあった尾張藩の上屋敷に、藩に仕える下級の武士の子として生まれた。明治維新のあと、少年時代は父の勤めに従って名古屋や松江などで過ごした。

二葉亭四迷(1908年)
二葉亭四迷(1908年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

少年の心を動かしたのは、ロシアへの危機感だった。1875年、日本は樺太をロシアに譲り、千島列島を得る条約を結んだ(樺太・千島交換条約)。北からロシアが迫ってくる、日本はいずれロシアと戦うことになる、と彼は考え、軍人になって国を守ろうとした。だが陸軍士官学校の試験に3度挑んで3度とも落ちた。目が悪かったためとされる。

そこで彼は道を変えた。敵を知るには、まずその言葉を学ばなければならない。1881年、東京外国語学校のロシア語科に入った。そこで彼は思いがけないものに出会った。ロシア語の教材として読んだゴーゴリやツルゲーネフ、ゴンチャロフの小説、そしてベリンスキーの批評である。社会と人間の心をまっすぐに見つめるロシアの文学に、彼は強く打たれた。当時の日本で、これほど深くロシアの文学を原語で読んでいた者はほとんどいなかった。1886年、学校が別の学校に統合されることに反発して、彼は中退した。

同じ1886年、彼は前年に出た『小説神髄』の著者坪内逍遥を訪ねた。逍遥は、日本の小説を、善を勧め悪を懲らしめる教訓の道具から、人の心のありさまを写すものに変えようと説いていた。二葉亭がロシアの文学論を語ると、逍遥は驚き、小説を書くことを勧めた。

ところが二葉亭は、どう書けばよいのか分からなかった。当時の文章は、平安の物語や江戸の戯作の流れをくむ雅な文体か、漢文を読み下した硬い文体だった。どちらでも、いまを生きる人間の揺れ動く心は書けない。相談すると、逍遥は、三遊亭円朝の落語のとおりに書いてみたらどうか、と答えたという。二葉亭自身がのちに、言文一致を始めたいきさつとしてこう回想している。円朝の高座を速記して文字にした本は、そのころよく売れていた。話し言葉が印刷され、読まれていたのである。

1887年から1889年にかけて、二葉亭は『浮雲』を発表した(言文一致)。無名の新人の名では売れないため、第一篇は逍遥の名を借りて出た。主人公の内海文三は、役所を首になり、下宿先の従妹お勢への思いも届かず、自分の内へ内へとこもっていく。自意識と劣等感、人の目への過敏さが、話し言葉に近い文体で細やかに書かれた。日本の近代小説の始まりとされる作品である。ただ文体はまだ統一されておらず、地の文には戯作の調子も混じる。物語は第三篇の途中で途切れ、未完に終わった。二葉亭自身、のちにこの作品を失敗だったと繰り返し語っている。

同じころ、彼はツルゲーネフの『猟人日記』の一編を『あひゞき』の題で訳した。秋の樺の林で雨と日の光が移ろうさまを、ロシア語の息づかいのまま日本語に移した訳文は、若い書き手たちに衝撃を与えた。国木田独歩や田山花袋は、日本語でこんなふうに自然を書けるのかと驚いたことを書き残している。日本の文章の自然描写は、ここから変わったとしばしば言われる。

だが『浮雲』のあと、二葉亭は10年以上小説を書かなかった。文学は男子一生の仕事ではない、という考えを、武士の家に生まれ軍人を志した彼は捨てきれなかった。文筆では食べていけなかったし、自分の才能も信じられなかった。彼は内閣の官報局に勤め、陸軍の学校でロシア語を教え、東京外国語学校の教授になり、さらには中国に渡って警察の学校で教えもした。ロシアと東アジアの情勢に関わる仕事を、彼は求め続けた。

日露戦争が始まった1904年、彼は朝日新聞社に入った。そのかたわら、ゴーリキーやアンドレーエフといった同時代のロシアの作家を訳し続け、日露戦争の惨禍を描いたアンドレーエフの『血笑記』も彼の訳で世に出た。1906年、20年ぶりの長編『其面影』を書き、翌年には、自分の半生を突き放して眺める『平凡』を書いた。同じころ、夏目漱石も朝日新聞に入社している。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

1908年6月、二葉亭は朝日新聞の特派員としてロシアの都ペテルブルクへ向かった。若い日に学び、20年あまり憧れ続けた国である。だが現地の暮らしは厳しかった。寒さと、慣れない食事と、仕事の重圧の中で、彼は肺結核を悪化させた。1909年4月、帰国のためロンドンから日本の船に乗せられたが、5月10日、インド洋のベンガル湾の上で死んだ。45歳だった。遺体はシンガポールで火葬され、遺骨が日本へ運ばれた。

二葉亭四迷という筆名は、「くたばってしまえ」の音に字を当てたものだとされる。文学を志すと告げて父に罵られた言葉だという話と、ふがいない自分に向けて自ら吐いた言葉だという話がある。

彼は最後まで自分の仕事に満足しなかった。けれども、話すように書くという彼の試みは、山田美妙や尾崎紅葉らの試みとともに受け継がれ、明治の終わりには小説の文章の主流になった。いま私たちが日本語で書く散文のほとんどは、彼が『浮雲』と『あひゞき』で切り開こうとした道の先にある。

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