概要
本名、長谷川辰之助。江戸生まれ。ロシアの南下に備えて軍人を志し、士官学校に三度落ちて、東京外国語学校ロシア語科へ。ツルゲーネフとゴンチャロフを原語で読んだ。1887年『浮雲』。話し言葉で小説を書く実験である。訳した『あひヾき』の自然描写が、日本の文章を変えたと言われる。文学に自信が持てず、10年以上筆を折って官庁と新聞社に勤めた。朝日新聞の特派員としてペテルブルクへ行き、結核を得て、帰国の船中、ベンガル湾で死んだ。
所属
日本関わったできごと(1)
言文一致AD1887年 · 試みた本文
本名、**長谷川辰之助**。1864年4月4日(元治元年2月28日)、江戸市ヶ谷の尾張藩上屋敷に生まれた。父は尾張藩の下級武士。
維新後、一家は名古屋へ移った。
**軍人志望**。
少年期の彼を動かしたのは、**対露の危機感**である。
樺太・千島交換条約(1875年)、そしてロシアの南下。彼は、日本がロシアに侵されるという危機感を強く持った。
**陸軍士官学校を、三度受験して、三度落ちた**。近視が理由とされる。
そこで彼は、別の道を選んだ。**敵を知るために、その言葉を学ぶ**。
1881年、**東京外国語学校ロシア語科**へ入学。
**ロシア文学**。
そこで、彼は思いがけないものに出会った。
教師は、ニコライ神学校の関係者と、亡命ロシア人。テキストは、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、レールモントフ、そして批評家**ベリンスキー**。
彼は、ロシア文学の、社会と人間を凝視する態度に打たれた。
(当時の日本で、これほど深くロシア文学を原語で読んでいた者は、ほとんどいない。)
1886年、学校の改組(東京商業学校への統合)に反対して、彼は**中退**した。
**坪内逍遥**。
同じ1886年、彼は『**小説神髄**』(1885年)を読んで、著者の坪内逍遥を訪ねた。
逍遥は、日本の小説を、勧善懲悪の道具から、人間の心理を写すものへ変えようとしていた。
二葉亭は、逍遥にロシアの文学論を語った。逍遥は驚き、彼に書くことを勧めた。
**文体の問題**。
しかし、二葉亭は困った。
**どう書けばよいのか、分からない**。
雅文で書けば、江戸の戯作か王朝物語になる。漢文訓読体では、内面が書けない。
彼は逍遥に相談した。
逍遥の答え(二葉亭が1906年の「余が言文一致の由来」で回想している)。
「**君は円朝の落語を知つてゐよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うか**」。
**三遊亭円朝**の落語を速記した本が、明治10年代に出版され、よく売れていた。速記術が日本に入ったのが1882年である。
**話し言葉が、印刷されて、読まれている**。その実例が、目の前にあった。
**『浮雲』**(1887〜89年)。
第一篇は、無名の彼の名では売れないため、**坪内逍遥の名**で出た。
主人公・内海文三。官吏を免職になり、下宿先の従妹お勢への思いも報われず、内へこもっていく。
「文三」の内面が、細かく書かれる。自意識と、劣等感と、他人の視線への過敏。
近代日本文学の最初の小説とされる。
**未完**である。第三篇の途中で、彼は書けなくなった。
**彼自身の評価**。
厳しかった。
彼は後年、『浮雲』を「失敗作」と繰り返し言った。文体についても、「あれは言文一致ではない」「未熟だった」と。
(実際、『浮雲』の文体は統一されていない。地の文に江戸戯作の調子が混じり、途中で変化する。)
**『あひヾき』**(1888年)。
ツルゲーネフ『猟人日記』の一篇の翻訳。
その自然描写が、日本の文章に決定的な影響を与えた、としばしば言われる。
「秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に坐してゐたことがあつた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ」。
**国木田独歩**が、これを読んだ衝撃を書いている。日本語で、自然を、こう書けるのか、と。
(田山花袋も、島崎藤村も、この訳文を挙げている。)
**沈黙**。
『浮雲』の後、彼は**10年以上、小説を書かなかった**。
理由は、複数ある。
(1)**文学への懐疑**。彼は「文学は男子一生の事業にあらず」という考えを、生涯、捨てられなかった。武士の家に生まれ、軍人を志した男の、抜けない意識である。
(2)**生活**。文筆では食えない。
(3)**自己への不信**。
彼は、内閣官報局の官吏になった。陸軍大学校のロシア語教師。東京外国語学校教授。海外貿易の学校。そして、北京へ渡って警務学堂の教習。
**復帰**。
1904年、日露戦争。1904年、**朝日新聞社**に入った。
1906年、19年ぶりに小説『**其面影**』。1907年『**平凡**』。
『平凡』の冒頭。
「私は今年三十九になる。……もう五年もすると四十だ。……**人間は四十になると、大抵の事は分つてくる**」。
自嘲と、諦めと、そして醒めた目。
**ペテルブルク**。
1908年6月、朝日新聞の特派員として、ロシアへ発った。
彼が20代で学び、20年、直接には触れられなかった国である。
しかし、現地の生活は厳しかった。寒さ、粗末な食事、そして仕事の重圧。
肺結核が悪化した。
1909年4月、帰国のため、ロンドン経由で船に乗せられた。
**1909年5月10日**、インド洋、**ベンガル湾**の上で死んだ。**45歳**。
遺体は、シンガポールで火葬された。遺骨は日本へ運ばれた。
**筆名**。
「二葉亭四迷」は、「**くたばってしまえ**」の音を当てたもの、と言われる。
(父に「くたばってしまえ」と罵られたから、という説と、自分の書くものを自嘲して自分に向けた言葉だ、という説がある。彼自身は後者に近い説明をしている。)
**残ったもの**。
彼は、自分の仕事に、最後まで満足しなかった。
しかし、いま日本語で書かれるほとんどすべての散文は、彼が『浮雲』と『あひヾき』で試みた方向の、先にある。