メルネプタハ碑
概要
ラムセス2世の息子の戦勝碑に、「イスラエルは荒らされ、その種はない」。エジプトの記録に「イスラエル」が出てくる最初で、聖書の外で最も古い。民の名で、国の名ではない。碑はテーベの葬祭殿から1896年に出た。
場所
25.72°N 32.61°E · エジプト・ルクソール
関わった人(1)
メルネプタハ?–BC1203年 · 王本文
紀元前13世紀の末、エジプトは長い治世を終えたラムセス2世の後を、息子のメルネプタハが継いでいた。ラムセス2世は60年以上も王位にあったため、跡を継いだメルネプタハはすでに13番目の息子で、即位したときには60歳前後だったとみられる。父の時代にカデシュの戦いを経てヒッタイトとの和平が結ばれ、エジプトは東地中海の大国として安定していた。だが西からはリビアの諸部族が、海の向こうから来た人々と組んでナイルの三角州に押し寄せようとしていた。
メルネプタハの治世の5年目、紀元前1208年ごろ、王の軍はリビアの軍を三角州の西で打ち破った。この勝利を記念して刻まれたのが、のちにメルネプタハ碑と呼ばれる石碑である。碑は高さ3メートルを超える黒い花崗岩で、もとは前の王朝のアメンホテプ3世が建てた碑を裏返し、その裏に新しい文を刻んで再び使ったものだった。28行の文の大半は、リビアの王を逃げ出させ、その陣営を奪った勝利を、詩の形で讃えている。

1896年、イギリスのエジプト学者フリンダーズ・ピートリーが、テーベ(いまのルクソール)の西岸にあるメルネプタハの葬祭殿の跡でこの碑を掘り出した。文を読んだ同僚が、終わり近くの行に、聞き覚えのある名を見つけた。そこには、エジプトの周りの国々を王がすべて従えたことを並べた一節がある。諸侯はひれ伏して平安を乞い、九つの弓(エジプトの敵の総称)のうち頭を上げる者はいない。リビアは荒らされ、ヒッタイトの地は平らげられ、カナンはあらゆる災いとともに奪われた。アシュケロンは連れ去られ、ゲゼルは取られ、イェノアムは無いものにされた。イスラエルは荒らされ、その種はない。フル(カナンの地)はエジプトのために寡婦となった、という文である。ピートリーは、この碑は自分が見つけたどんなものよりも世に知られるだろう、と言ったと伝えられる。
「イスラエル」という名が書かれた記録としては、これが今のところ最も古い。旧約聖書の外で、イスラエルが確かに出てくる最初の記録でもある。次に古いのは、紀元前9世紀のモアブの王のメシャ碑などで、400年近くの開きがある。
注目されるのは、名前に添えられた記号である。古代エジプトの文字では、語の終わりに意味の種類を示す決定詞という記号を置く。アシュケロン、ゲゼル、イェノアムには、外国の土地や町を示す記号が添えられているのに、イスラエルには、座った男と女と複数を示す線の、人の集団を表す記号が添えられている。このためイスラエルは、このころ町や国としてではなく、一つの民として、カナンの丘陵地のどこかに住んでいたと考えられている。もっとも、書記の書き癖にすぎないとみて、強く読み込みすぎることを戒める研究者もいる。
「その種はない」の「種」は、穀物の種とも、子孫とも読める。畑を焼き払ったという意味か、人々を根絶やしにしたという意味か、どちらにも取れる。いずれにしても、それはエジプトの王の誇張で、イスラエルが滅びなかったことは後の歴史が示している。
この碑は、聖書の「出エジプト(伝承)」の年代を考える手がかりとしても使われてきた。紀元前1208年ごろにイスラエルという民がすでにカナンにいたのなら、エジプトを出たという話の時代はそれより前になる、という考え方である。ただし碑は、イスラエルがエジプトにいたことも、そこから出たことも何も語らない。言えるのは、紀元前13世紀の末に、イスラエルと呼ばれる人々がカナンにいて、エジプトの王がその名を知っていた、ということまでである。

テーベのカルナック神殿の壁には、アシュケロンなどとの戦いを描いた浮彫がある。これをメルネプタハの遠征の場面とみて、その中にイスラエルの人々の姿があるとする説が唱えられたが、浮彫が誰の時代のものかも含めて争われている。メルネプタハの治世は10年ほどで終わり、その後のエジプトは、王位をめぐる争いと、海の民の侵入と青銅器時代の終わりの侵入の時代に入っていく。碑はカイロのエジプト博物館に収められ、聖書の時代の始まりを外から照らす石として知られている。