『説文解字』

概要
許慎が9353字を540の部首に分け、字の成り立ちを説いた。部首で字を引くという仕組みが、ここで生まれた。以後の字書はすべてこの形を継ぐ。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
許慎AD58年頃–AD148年頃 · 著者本文
後漢の学者たちは、一つの厄介な問題を抱えていた。儒教の経典には、二系統の本があったのである。一つは、秦の焚書のあと、老学者が暗記していたものを漢代の通用の書体である隷書で書き起こした本で、「今文」と呼ばれた。もう一つは、孔子の旧宅の壁の中などから見つかった、秦より前の古い文字で書かれた本で、「古文」と呼ばれた。字句も解釈も食い違い、どちらを正統とするかをめぐって、学者たちは何代にもわたって争った。
許慎は、汝南郡召陵(いまの河南省)の人で、古文の学者として名高い賈逵に学んだ。その博識ぶりから「五経無双の許叔重」と称えられたという。許慎は、経典を正しく読むには、まず一つ一つの字の本来の形と意味を知らなければならないと考えた。当時の学者の中には、隷書の字の形から勝手な解釈をこしらえる者がいた。「長」の字は馬の頭に人がついた形だ、「斗」は人が十を持つ形だ、といった具合である。許慎は自著の後書きで、こうした説を名指しして退け、字は古い形にさかのぼって説かなければならないと述べた。

そうして書き上げたのが『説文解字』である。題は「文(単体の字)を説き、字(組み合わせてできた字)を解く」という意味になる。本文は西暦100年に成り、病床にあった許慎に代わって、121年に息子の許沖が朝廷に献上した。見出しにした字は9353字、異体の字が1163字、解説の文字数は13万を超える。見出しは、秦の始皇帝が文字を統一したときの小篆で書き、わかる限り、それより古い字の形も添えた。
この本の最大の発明は、字を部首で分類したことだった。許慎は、字を形の共通する部分で540のまとまりに分け、それぞれの頭に立つ字を「部首」とした。「水」の部に江・河・海を、「木」の部に松・柏・林を集める。部首の並びにも理屈を立て、「一」で始まり「亥」で終わるようにした。万物は一から始まり、十二支の最後の亥で一巡して終わる、という当時の世界観を映している。

それぞれの字については、意味と成り立ちを説いた。その原理として示したのが「六書」である。物の形を写した象形(日・月)、位置や抽象を印で示す指事(上・下)、意味の要素を組み合わせた会意(武・信)、意味の部分と音の部分を組み合わせた形声(江・河)、それに転注と仮借。漢字の大半は形声でできていることも、この枠組みで説明できる。
もちろん、許慎の説明には誤りもある。「武」を「戈を止める」と解いたのは、春秋時代の楚の王の言葉として史書『左伝』に見える説で、古い字の形を見ると、戈を持って足で進む姿と考えられている。許慎が見ることのできた古い字は、主に戦国時代の文字と、わずかな青銅器の銘文までで、殷代の甲骨文字が見つかるのは1899年のことだった。甲骨文字や青銅器の銘文の研究が進んだいまでは、『説文解字』の解釈の多くが書き換えられている。それでも、甲骨文字を読み解くときの手がかりとして、研究者がまず開くのはこの本である。

許慎の原本は失われ、いま読まれているのは10世紀の宋の初めに徐鉉が校訂した本と、その弟の徐鍇の注釈本が元になっている。清代には考証学の大家の段玉裁がおよそ30年をかけて詳しい注をつけ、『説文解字注』を完成させた。これが今日の標準の読み方になっている。
部首で字を引くという仕組みは、後の字書がすべて受け継いだ。部首の数はしだいに整理され、1716年の康熙字典は214の部首に落ち着いた。日本の漢和辞典もこの214部を使っている。漢字辞典を開いて「さんずい」や「きへん」から字を探すたびに、私たちは許慎の作った道具を使っている。同じころ、宦官の蔡倫が紙の作り方を改めて皇帝に献じている(蔡倫の製紙法)。書き記す材料と、文字を整理する方法が、後漢のほぼ同じ時期に出そろったことになる。