できごと

畢昇の活字

Bi Sheng's movable type
AD1045年頃
年に諸説あり重要度 5
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民キメク=キプチャク可汗国遼(契丹)宋チベットラージプートの諸王国ガズナ朝西夏西夏チョーラ朝チャールキヤ朝南詔パーラ朝南詔と大理日本パガン朝プラティーハーラ朝高麗パガン朝クメール帝国アイヌカリンガHaripunjayaSenas大越チャーハマーナ朝チャンパドヴァーラヴァティーAD1045年頃開封
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1045年頃の版図を描いています(29勢力)。

概要

膠泥(粘土)を薄く切って字を彫り、火で焼いて硬くした。鉄の板に松脂と蝋と紙の灰を敷き、その上に活字を並べ、温めて押し付けて平らにする。刷り終えたら温めて外す。沈括が『夢渓筆談』に書いた。漢字は数万種あって、一つの本に同じ字が何度も出るので、木版のほうが安かった。それでも、活字の原理は、朝鮮(金属活字、13世紀)へ渡った。グーテンベルクの400年前。

場所

開封
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省

関わった人(1)

畢昇AD970年頃–AD1051年頃 · 作った

本文

中国では、活字が生まれる数百年前から、木版による印刷が広く行われていた。1枚の板に1ページ分の文字と絵を左右反転させて浮き彫りにし、墨を塗って紙を当て、上からこする。7世紀から8世紀ごろには仏教の経文や護符、暦が刷られるようになり、敦煌の石窟で見つかった『金剛般若経』の巻物には、868年の日付が刷り込まれている。日付の確かな印刷物としては世界最古のものである。10世紀の五代には、宰相の馮道のもとで儒教の経典が国家事業として木版で刊行された(馮道の儒教経典刊行)。続く宋の時代には、都の国子監が経書や史書を大量に刷り、民間の書肆も詩文集や受験参考書を売った。本は、写すものから買うものへ変わりつつあった。

その宋の仁宗の慶暦年間(1041〜48年)に、畢昇(畢昇)という男が、文字を一字ずつばらばらの部品にして組み合わせる「活版」を発明した。彼について知られていることは、ほぼすべて、北宋の博学の官僚沈括が晩年の1088年ごろにまとめた随筆集『夢渓筆談』の一条にもとづく。沈括は畢昇を「布衣」、つまり官職を持たない庶民と書いている。職人だったのか、書肆の主人だったのか、それ以上のことは分からない。

沈括の記述は具体的である。畢昇は、粘り気のある泥(膠泥)に字を彫り、銭の縁ほどの薄さにして、一字ごとに一つの印とし、火で焼いて硬くした。印刷するときは、まず1枚の鉄の板を用意し、その上に松脂と蝋と紙を焼いた灰を混ぜたものを敷く。鉄の枠を板の上に置き、その中に活字をぎっしりと並べて1ページ分の版とする。これを火であぶって温め、脂が少し溶けたところで、平らな板で上から押さえると、活字の面が砥石のように平らにそろう。刷り終えたら再び火にかけて脂を溶かし、手で払えば活字はぽろぽろと外れ、汚れもしない。

効率についても、沈括は冷静に書いている。2、3枚刷るだけなら簡便とは言えないが、数十、数百、数千と刷るなら、きわめて速い。鉄の板を常に2枚用意し、一方で刷っているあいだに、もう一方で次の版を組んでおけば、交互に使って瞬く間に仕事が進む。活字は一字につき数個ずつ作り、「之」や「也」のようによく出てくる字は20個以上用意した。同じ版の中に何度も出てくるからである。使わないときは字ごとに紙の札を付け、漢字の音の韻ごとに分けて木の棚に収めておく。珍しい字で手持ちがないものは、その場で彫って草の火で焼けば、すぐに間に合った。

なぜ木ではなく焼いた土を使ったのかも、沈括は説明している。木は木目に粗い所と細かい所があり、水を吸うと膨らんで高さが不ぞろいになるうえ、敷いた脂にくっついて外れにくい。焼き物ならそういうことはない。畢昇の死後、その活字は沈括の一族の者たちが手に入れ、宝として保存していたという。

この発明は、しかし中国の印刷を一変させはしなかった。理由はいくつも考えられる。漢字は日常に使うものだけで数千字、全体では数万字に及ぶ。一冊の本を組むためには膨大な数の活字を用意し、その中から必要な字を探し出す手間がかかった。アルファベット二十数文字を組み合わせればよいヨーロッパとは、条件がまるで違った。さらに中国の出版では、版木を保管しておき、注文があるたびに必要な部数だけ刷るのが普通だった。版木は何十年も使え、増刷も改版もたやすい。いったん組んだ活字は次の本のためにばらしてしまうので、刷り増しのたびに組み直さねばならない。少しずつ長く売る本には、木版のほうが向いていた。

それでも活字の技術は絶えなかった。12世紀から13世紀には、中国西北の西夏で、泥や木の活字で仏典が刷られ、その実物が残っている。元の時代の1298年ごろ、地方官の王禎は木の活字を数万個作らせ、大きな円卓に韻の順に並べて、座ったまま卓を回して字を拾う仕組みを考案した。そのやり方は、彼の農業書『農書』の付録に詳しく書かれている。15世紀末には、江南の無錫の華燧らが銅の活字で本を刷った。清の乾隆帝の時代には、宮廷で25万個以上の木活字が作られ、大規模な叢書が刊行された(乾隆帝)。活字は、族譜(一族の系図)や地方志のように、一度にまとまった部数を刷り、二度と刷り直さない本に好んで使われた。

活字のもう一つの行き先が朝鮮半島だった。高麗では13世紀に金属の活字が使われ、1377年には現存する世界最古の金属活字本『直指』が刷られた(『直指』の印刷)。朝鮮王朝は国家事業として何度も銅活字を鋳造し、15世紀に作られた表音文字(訓民正音の頒布)の本も活字で刷られた。

ヨーロッパでは、1450年ごろ、マインツのグーテンベルクが、金属の活字を鋳型で大量に作り、油性のインクと印刷機を組み合わせて活版印刷を始めた(グーテンベルクの活版印刷)。畢昇の活字からおよそ400年後のことである。中国の技術が何らかの形でヨーロッパに伝わったのか、まったく独立に発明されたのかは、証拠がなく分からない。ふつうは独立の発明と考えられている。

グーテンベルクの活版印刷に関わる図版:Gutenberg press
グーテンベルクの活版印刷Wikimedia Commons International Printing Museum · CC0

1990年、湖北省英山県で、「畢昇」の名を刻んだ墓碑が見つかった。1051年にあたる年号が記されている。沈括の書いた活字の発明者と同じ人物かどうかについては、肯定する研究者と疑う研究者がいて、決着していない。いずれにせよ、名もない一人の庶民が考えた、文字を部品に分けて組み直すという発想は、記録に残るかぎり、世界で最初のものだった。

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