概要
膠泥(粘土)を薄く切って字を彫り、火で焼いて硬くした。鉄の板に松脂と蝋と紙の灰を敷き、その上に活字を並べ、温めて押し付けて平らにする。刷り終えたら温めて外す。沈括が『夢渓筆談』に書いた。漢字は数万種あって、一つの本に同じ字が何度も出るので、木版のほうが安かった。それでも、活字の原理は、朝鮮(金属活字、13世紀)へ渡った。グーテンベルクの400年前。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
関わった人(1)
畢昇AD970年頃–AD1051年頃 · 作った本文
木版印刷。中国では8世紀から。1枚の板に、1ページ分を左右反転で彫る。868年の『金剛般若経』(敦煌で見つかった、日付のある世界最古の印刷本)。宋代、国子監が経書と史書を大量に刷った。
活字。慶暦年間(1041〜48年)、畢昇。
沈括『夢渓筆談』巻18(1088年頃)の記述が、唯一の同時代の記録。
「板印の書籍は、唐人はまだ盛んに用いなかった。五代に初めて五経を印刷し、以後、典籍はみな板本になった。慶暦中、布衣(庶民)の畢昇が、また活板を作った。その法は、膠泥を用いて字を刻み、薄きこと銭の縁のごとくし、一字ごとに一印とし、火で焼いて堅くする。
まず一つの鉄板を作り、その上に松脂・蝋・紙灰の類を敷く。印刷しようとするときは、鉄の枠を鉄板の上に置き、その中に字を並べて、板いっぱいにする。これを一板とする。火であぶって温め、脂が少し溶けたら、平らな板でその面を押すと、字が砥石のように平らになる。
もし二、三枚だけ刷るなら、簡便とは言えない。しかし数十、数百、数千を刷るなら、極めて速い。常に二枚の鉄板を用意して、一枚を刷る間に、もう一枚に字を並べる。この板が刷り終われば、第二の板がすでに用意されている。交互に用いれば、瞬く間に終わる。
字ごとに数個の印を持ち、『之』『也』などの字は、それぞれ二十余りの印を持つ。同じ板の中に重複する場合に備えるためである。使わないときは、紙で貼って標をつけ、韻ごとに木の格子に収めて置く。珍しい字で用意のないものは、その場で刻み、草火で焼けば、すぐできる。
木で作らないのは、木は木目に粗密があり、水を含むと高下が不平になり、また脂に粘って取り外せないからである。焼いた土は、印刷が終わって火であぶれば、脂が溶けて、手で払えば落ちる。まったく汚れない。
畢昇が死んだ後、その活字は、私の甥たちが手に入れて、今に至るまで宝として保存している」。
なぜ広まらなかったか。漢字は数千から数万種ある。一冊の本を組むには、大量の活字と、それを探す仕組みが要る。しかも中国では、同じ本を長く刷り続ける(版木を保管して、注文があれば刷る)ことが多く、木版のほうが安かった。活字は、大部の叢書や、地方志や、族譜のような、一度に多く刷って、二度と刷らないものに使われた。
その後。1298年、元の王禎が木活字を作り、輪転する円卓(韻ごとに字を並べて、回して探す)を考案した。1490年、無錫の華燧が銅活字。朝鮮では、13世紀に金属活字が使われ(『詳定古今礼文』1234年、現存しない)、1377年の『直指心体要節』が現存する世界最古の金属活字本(パリの国立図書館にある)。1403年、太宗が鋳字所を設けて、国家事業として金属活字を作った。表音文字(訓民正音、1446年)と組み合わされた。
グーテンベルクは1450年頃。中国と朝鮮の技術が伝わったのか、独立の発明かは、証拠がない。彼の系統の特徴は、鉛・錫・アンチモンの合金、鋳型による大量の同形活字、油性インク、そして葡萄の圧搾機を応用した印刷機。アルファベットは26文字。
1990年、湖北省英山県で「畢昇」の名を刻んだ墓碑が見つかった。1051年の日付。同一人物かどうかは、決着していない。